第53話 蟻罪者(ぎざいしゃ)
通勤ラッシュの電車が過ぎ、駅前広場に朝の陽が差し込む頃、男はベンチに腰を下ろしていた。
村井拓真、三十五歳。七年前に一匹の蟻を殺した男。
──殺した、といっても、意図的だったわけではない。だが、それは「重要調査個体」だった。
「蟻一匹で七年かよ……」
つぶやいた声は、風に消えた。
今も足元には、蟻が三匹ほど行列を成していた。踏まないように、靴先をわずかに動かす。
昔なら無意識に踏んでいただろう。今では気を付けて歩いてる。
出所して一ヶ月。住む場所は、支援団体が用意してくれた簡素なアパート。
仕事も探してはいる。けれど履歴書を出せば面接は取り消され、面接まで漕ぎ着けてもこう言われる。
「……ああ、村井さん。“蟻関連”ですね。ごめんなさい…ちょっと、うちは難しいです」
人を刺した男が再就職していくのを見てきた。
薬物で捕まったやつが、配送業に戻っているのも知っている。
でも、自分だけはダメだった。
「殺す相手、間違えたんだな……」
コンビニの求人に応募した夜。駅の階段を降りようとしたところで、声をかけられた。
「すみません、ちょっとよろしいですか」
警備服を着た男二人。顔に出さぬよう努めるも、脈が跳ねた。
「通報がありまして。“蟻罪歴者”のような人物が付近をうろついていると」
(そんな者わかるのか…)
村井はIDを見せて、身元を告げる。男たちは丁寧に礼を言って去っていったが、そのまま彼の後を目で追っていた。
彼はまた、駅の階段を戻って地上に出た。
今、都市部では「元蟻罪者」のGPS追跡が合法化されつつある。
「事故物件としての事前申告」は義務だ。
彼の存在そのものが、公共安全上の“異物”なのだ。
数日後、保護観察官の面談室。壁には共生法のポスターが貼られている。
【私たちは、誰かの上に立つために生まれたのではない】
──蟻が、子どもに肩車されて微笑んでいる。
「村井さん、SNSではまだ叩かれてますね。もう少し生活圏を変えてみてはどうでしょう?」
「……田舎に、蟻はいないんですか?」
観察官は黙って書類をめくった。
公園のベンチで、彼はまたパンを食べていた。袋入りの、安いロールパン。
ひとくちちぎって口に入れる。残りを落とすと、地面の上に蟻が寄ってくる。
静かに、静かに、それを見ていた。
「おじさん、それ、蟻にあげたの?」
ふと声がして、幼い男の子が立っていた。
「……そうだよ」
「なんで?」
「……ごめんなさいって、思ってるからかな」
子どもはしばらく考えて、うなずいた。
「ぼく、蟻ふんじゃったことある。ないしょだけど」
「そうか……」
「でも、だれにも言わないでね」
「わかった」
そう言って、拓真は微かに笑った。
それは、七年ぶりの「人間」としての笑みだったかもしれない。
パンくずを運ぶ蟻たちが、彼の足元に光る影を落としていた。
彼の居場所は、もうこの線の“外”にはなかった。
だが、それでも。
人間でありたいと願うことだけは、まだ、罪じゃなかった。
パンくずを見つけた蟻たちは、わらわらと彼の足元に群がっていた。
拓真は立ち上がり、踏まないように静かにベンチから離れた。
そのときだった。
「……ちょっと、あれ……村井じゃない?」
公園の端にいた二人組の主婦が、小声で囁いた。だが声ははっきり届く。
「テレビで見た顔……あの、蟻……やった人……だよね」
「また、踏むんじゃない?」
もう一人がスマホを握り、ちらりと拓真の方を見た。
目が合う。彼女の手が、ぴたりと止まる。
「……行こ。怖いわ…あんなのの近くにいたら私達も危ないわよ。急に暴れるかもしれないし」
去っていく二人。その後ろ姿は、まるで何か穢れたものから逃れるようだった。
駅に向かう道。拓真が歩くたび、人々がわずかに距離を取る。
前から来たサラリーマンの男性が、彼を認識したのか、急に道を譲った。
後ろから子どもを連れた母親が彼を追い越すとき、そっと子の肩を抱き寄せる。
「ママ、あのおじちゃん……」
「シッ。見ちゃだめ」
誰も、何も言わない。
だが、目が語っている。
──“あれが蟻罪者”だと。
──“あいつは人じゃない”と。
自販機の前でジュースを買おうとした。ICカードをかざす。
背後から、制服姿の高校生たちの笑い声が聞こえてきた。
「マジでこわ、よく蟻殺して外へ出られるよな」
「罪償ったって、心ん中じゃ“またやる”って思われてんだろ」
拓真は、何も言わず缶コーヒーを受け取ると、その場を離れた。
歩き出す背中に、かすかにスマホのシャッター音が鳴った。
──社会は、許していなかった。
法は赦しても、人々の目は赦していない。
「人殺し」よりも、「蟻殺し」の方が重罪なのだ。
たった一匹。されど一匹。
夜。部屋に戻り、缶コーヒーを机に置いた。
ふと、SNSを開く。今日の出来事がもう、既に拡散されていた。
> 【速報】◯◯公園で蟻罪者が“監視中に接触”か?
子どもに近づいた模様、保護者から通報あり。
また、「あの目」がこちらを向く。
自分は何もしていない。
でも、もうその“何も”すら、許されていない。
──自分は「罪」を償ったのではない。
「人間であること」を奪われただけだった。
彼は画面を伏せ、静かに電気を消した。
暗闇のなか、机の上に置かれたパンくずに、小さな蟻が一匹、這い上がってきていた。
村井は、ただ見ていた。
踏みもせず、払いもせず。
その背中に、人間社会のすべての視線が刺さっている気がした。




