第52話 60%を超えて
記録係として最後の報告書に署名をしたのは、梅雨明けの湿った午後だった。
——全国共生社会率(順化率)、60.8%
その数字が報道された瞬間、街がわずかにざわついた。だがそれは「驚き」ではない。
“次の段階が来た”という、あらかじめ予感されていた変化への諦めにも似た受容だった。
翌日、官報が更新された。
最初のページに掲げられた新条文の見出しはこうだ。
「蟻社会優先原則に基づく都市構造再編成基本法」
一文が短くなり、言葉が簡素になる。
かつては慎重に議論されていたはずの内容が、まるで待ってましたと言わんばかりにスムーズに可決されていく。
——議員たちの背後にも、黒い粒が這っていた。
数日後、各自治体に対して「蟻適合区域」の設置義務が通達された。
公園の芝生は柵で囲われ、「人間立入禁止区域」として封鎖される。
幼稚園の砂場はアリ塚に変わり、保育士がそのまま「蟻の観察指導員」へと肩書きを変えていく。
都市部の地下鉄は、順次「蟻優先路線」へと切り替えられていく。 “蟻の移動”の際には優先的に路線が明け渡されるというわけだ。
ある駅では、アナウンスがこう響いた。
「まもなく蟻列通過のため、20分間の運転停止を行います。しばらくお待ちください。」
もう、それを聞いても誰も文句を言わなくなった。 誰もが、蟻のために立ち止まることに慣れはじめていたのだ。
記録係の男は、内閣情報局の片隅で最後の報告を打ち込んでいた。
「都市順化率、70.5%。農村部との格差縮小へ、来週より“蟻導入支援金制度”が開始される。」
視線を上げると、執務室の天井に、黒い粒がうごめいていた。
規則正しく、目的もわからずに、ただ何かを目指して進む無数の脚。
彼はもう、それに驚きすらしなかった。
「彼ら」はもう、人間より多くの空間を支配している。
そして、次のフェーズが始まることも、誰もが知っていた。
——“順化率80%に到達したとき、人間はもう、自分で考えることをやめるだろう”。
そんな言葉が、かつて学者たちの間でまことしやかにささやかれていた。
でも、今ではその学者たちですら、蟻の巣に“客員研究者”として招かれている。
「招かれた」と人間は思っているが—— 本当は、ただ割り当てられただけなのだ。




