第39話 自己提供(じこていきょう)
夜の高架下。冷えたアスファルトの上に並ぶ簡易テント。
その隅では、男が震える手で携帯端末を握りしめていた。
「全身、三年プラン。即金三〇〇万」
「知覚は維持されますが、感情の優先順位は再設定されます」
「自己同一性の混乱については保証外」
名前は梶原隆司、46歳。
元は配送ドライバー。3年前、交通事故で左腕を失い、職も住まいもなくした。
国の支援は障害認定が下りず宙に浮き、路上生活にまで落ちた。
それでも、彼はどうしても手に入れたいお金があった。
「あと半年、透析続けられたら……移植の順番が回ってくるかもしれないんです」
そう病院で言われたそうだ。
6つ下の妹・紗英はまだ30代の若さで、進行性の腎不全を抱えていた。
両親はもういない。小さい時から兄妹二人で互いを支え合って生きてきた。
「俺はもう使い物にならん。けど、紗英にはまだ未来があるだろ」
そう言って金を工面しようとしたが、保証人もないし彼に借りられる金などなかった。
「私…治療費、もうすぐ打ち切られるの。保険も、限度額を超えた……」
ある晩、病室で見舞ったとき、紗英がそう告げて泣き出した。
「やだよ……お兄ちゃん、まだ私死にたくないよ……!」
その声が、隆司のずっと耳の奥に残っていた。
「全身プラン 即金300万」
その広告は、前からずっと気にはなっていた。
迷いはあった。
自分が自分でなくなるかもしれない。
妹がそのことを知ったら、きっと泣いて止めるだろう。
けれど――
「紗英、お前が生きられるなら、それでいいんだよ」
自分の人生なんてもうたいした生き方なんかしていない…だったら紗英のために…
そう思い申請ボタンをタップする。
誰にも見られないように、テントの奥で静かに。
3日後。清潔な病室。蟻型機械が規則正しく動き、隆司の身体の各部に接続していく。
「Z群入植開始、順調です」
「腸内に第一波が定着。肺部へ導管展開中」
隆司は、身体に取り付けられた蟻型機械の動作を見つめていた。
痛みはない。ただ、少しずつ、自分の中に“何か”が移動してくる感じはした。
「……これで、妹の病気も治せる」 「これでいいんだ。妹が助かるなら」
1ヶ月後。
妹は一命をとりとめた。
移植の順番が回り、なんとか手術は成功。経過も良好。
「お兄ちゃん、ありがとう。絶対に、絶対に元気になるからね」
そう電話口でお礼を言いながら、紗英はすすり泣いていた。
けれど、その喜びの感情すら、もう既にどこか遠くにある気がした。
「なんで……涙が出ないんだ?」
笑いたくても、笑い方がわからない。
誰かと会っても、言葉が浮かばない。
信号機の色が、妙にまぶしく感じる。
「俺……誰だっけ?」
入植を、終えた隆は退院し再び街に出る。だが、何かが違った。 風景は妙に白く、音もどこかくぐもって聞こえる。
ふと道端の猫を見る。 以前なら「かわいい」と思ったはずの小さな命に、何の感情も湧かない。
子供の泣き声が、ノイズのように耳を刺す。 鏡の中で笑おうとした自分の顔が、うまく動かない。
研究所の記録。
「提供者・梶原隆司、適正確認」 「感情フィルタ再調整済。全身共生化進行中」 「記憶の一部に断絶あり。現時点では正常と判断」
彼は今も生きている。 だが、“自分”として生きているのかは、もうわからない。
夜のアパート。無機質な部屋にひとり。 テレビをつけても、音が意味を持たない。
「……妹って、誰だ?」
手元には、三〇〇万円の振込通知。 だが、その金のために失ったものを、もう思い出せない。
ATMで画面を見つめたまま、指が動かなかった。数字の意味が、わからなかった。
そしてもう、お金の使い方もわからなくなっていた…
《そう…“売ったのは身体だけだった。――はずだった。”》




