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第37話 誰もいない部屋

朝の商店街。シャッターの下りた店が並ぶ中、ひとりの老婆が歩いている。


「あら、朝は涼しいねぇ。ほんとに、いい天気だわ。」



野中トミ(78歳)。かつては仕立て屋。今は年金と少しの貯えで独居生活をしている。

最近では物忘れが増え、通帳を冷蔵庫にしまったり、ゴミを鍋で煮込んだりすることもある。

けれど彼女自身は、まだ「大丈夫」と思っている。


「夜になると身体がムズムズしてきてねぇ。年かねえ。なんか、動いてる気もするんだけどね……ははっ」


気のせいではなかった…そう彼女の身体の中には――


肺にコロニー、脊髄を走る蟻たち、腸内の処理班。

一時は“管理対象物件”として運用されていた。

夜になると活動していたのだ。



夜。

寝室で、トミがぽつりとつぶやく。

無数にいる蟻たちを孫たちと間違えて名前を呼ぶ

「あら裕太ちゃん、健太くん、康平ちゃん、忍ちゃん、ともちゃん…よく来てくれたね〜…。」

蟻の数だけ名前を呼ぶが、実際の孫は裕太だけだ…



彼女はいつしか、蟻たちの存在を**「孫」や「家族」**と混同し始めていた。


「そうそう、あんたたちも、寒いんだよね。お布団に入っておいで…。」

蟻たちは静かに、規則正しく、彼女の巣の中に戻ってくる。

トミはその一匹一匹を「良い子だねえ」と撫でているつもりだった。


そして毛布を蟻たちにの背中に覆いかぶせる…そこに誰もいないのに。




ある日。研究所の記録。


「野中トミ、認知機能低下が限界。自己と外部の区別が曖昧に」

「誘導しても操縦不能。抵抗は皆無」

「自発的放棄とみなし、撤退完了を確認」

「以降、資源再利用の対象外。放棄個体として終了処理」




その夜。

トミは誰に言うでもなく、独り言をつぶやく。


「……あれ? 今日はなんか、静かだねぇ」

「友樹くん、まなかちゃん、洋平くん、直樹くんはどこ行ったかいね〜」

…と、まったく別の名前を呼んでいる…



彼女はキッチンに立ち、なぜか並べられた空のケースに向かって語りかける。


「食べなさいね。冷えちゃうといけないから……」


もちろん、もう蟻はおろかもう誰もいない…

もう既に転居した後だった。



手に持っていたスプーンが落ちる。

ゆっくりと腰を下ろし、目を閉じる。

誰も管理せず、誰も見届けず、ただ静かに夜が更けていく。



《トミの身体はもう、誰の家でもなかった。》


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