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第30話 その一匹

午前9時、静まり返った教室。

今日は大学入試の本試験。


鉛筆の音だけが微かに教室内に響いている。

時計の秒針の音すら、気になって仕方がなかった。


  (この一問さえ解ければ……)


田島祐樹は、滲む汗を袖でぬぐい、マークシートに視線を落とす。


しかし――


用紙の上に、一匹の、黒い蟻が歩いてる。


A〜Eの選択肢を踏みつけるようにして、這っていた。


(おいおい……なにしてんだよ、お前)



手を止めて、しばらく眺めていたが、消える様子はない。


(まっ、試験官も見てないし…)



周囲の視線を確認してから、祐樹は右手の人差し指を伸ばし、そっと、勢いよくはじいた。


パン。


小さな音。

それだけだった。

…と思った。


それを見た試験監督官が青ざめて教室の外に慌てて出ていった。

 

数分後、教室に戻ってきた試験監督官は

「受験番号1283、田島祐樹さん」

呼び出した。


すると突然、警察官も2人入ってきた。

一瞬、空気が凍る。


「え…? なんですか……?」


「今、目撃証言とセンサー反応が一致しました。あなた、"蟻一体を故意に攻撃"しましたね」



「いやっ、待ってくださいよ。たかが一匹の蟻でしょう?……試験中に虫が出てきたら誰でも――」


「あなた、それが"問題"なんです」


警察官の目が冷たく光った。

「“たかが一匹”の感覚が、国家秩序の崩壊につながると、政府は警告しています」


「今年から、蟻殺傷は“保全法”の厳格適用対象ですから」



祐樹はただ呆然と、椅子に座ったまま立てずにいた。


周囲の受験生たちは、誰一人祐樹をかばわない。

ただ、何も無かったかのように、避けるように目を背け受験している。


「ちょっと待ってくれって……試験だぞ、僕の人生がかかってんだぞ……!」



「そもそも、あなたが攻撃したのは、ただの蟻ではありません。“構成蟻員”です。その構成蟻員にも家族がいるのです。」

「人生かかってるのはあなただけではないのですよ。」

「そして、すべての人間は蟻と共生する義務があると……知っていましたよね?」


警官に両腕を押さえられ、祐樹は立ち上がらされる。

もう、抵抗はできなかった。

廊下を引きずられる途中、試験室の掲示板が見えた。


 

【注意】

・構成員(蟻)を無断で触れないでください

・構成員の殺傷は、法第117条により5年以上の隔離収容、または矯正物件への転用が課せられます

・カメラおよび蟻ナノタグによる監視を実施中



(知らなかった。……知らなかったんだよ……)


もう、そんな言い訳は、誰も聞いていなかった。


 

その日、祐樹の受験番号は欠席扱いとなった。


そしてその後、彼の名前が合格者リストに載ることはなかった。

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