第29話 口づけの奥にいたもの
いつか夢を見たような日だった。
スマホの画面に浮かぶ「真司くん」の文字。
そこに「楽しみだね」とメッセージが届いた瞬間、美月の心はふわりと浮いた。
──この街に引っ越してきて、心細かった日々。
誰とも馴染めず、誰とも言葉を交わせなかった日々。
そんな時に、真っ先に気付いて笑顔で声をかけてくれたのが、彼だった。
「いつも優しくて、誠実で、完璧で――」
そう思っていた。
美月はその時から真司くんに惹かれていた。
一晩中眠れなかったあの日を、彼は知る由もない。
そして美月は勇気出して真司くんに告白した。
二つ返事でオッケーしてくれた。
すごく嬉しかった。
そして今日は、そんな彼と初デート。
彼のような人と並んで歩けるなんて、夢みたいで信じられない気持ちだった。
朝から何度も服を選び直し、鏡の前で笑顔の練習までした。
そうまでしても、彼に「ふさわしい」と思われたかった。
待ち合わせ場所に立つ彼は、やっぱり“完璧”だった。
ジャケットも髪型も、まるで雑誌から抜け出したみたいで、
優しい微笑みで「おまたせ」と声をかけてくれた。
その瞬間、美月の胸が「私達ほんとうに付き合ってるんだ」と胸が高鳴った。
初デートは、映画だった。
彼が選んでくれたのは、美月が観たがっていたファンタジー映画。
「よく覚えてたね」
「美月の言葉は、ちゃんと覚えてるよ」
彼のその一言が嬉しくて、映画の内容はあまり覚えていない…。
映画のあと、近くの静かなカフェに入った。
落ち着いた照明に、甘い香り。
彼はコーヒー、美月はフルーツティー。
「ここのケーキ、美味しいらしいよ」
「…ふふ、甘いの好きって言ったのも覚えてた?」
「うん。君の“好き”は全部知りたいからね」
そんなふうに言われたら、もう頬が熱くてたまらない。
けれど――ときどき、妙な感覚があった。
言葉は優しいのに、彼の目だけが、どこか冷めている気がした。
でも、美月は思った。
(きっと、緊張してるんだね。私も同じだし)
夕暮れの公園のベンチ。
街の喧騒が遠のき、風が髪を揺らした。
彼が静かに言う。
「美月、今日はありがとう。すごく、楽しかった」
「私も…本当に」
手が触れる。
彼がそっと肩を抱き寄せて、自然と唇が近づいてくる。
美月は、そっと目を閉じた。
──その瞬間。
舌の奥、喉の裏。
何かが、ざらりと滑り込んできた。
ぞわり…、と鳥肌が立つ。
舌先が、喉が、喉の奥が、小さな足音で埋め尽くされる。
美月の目が、ぱっと開く。
至近距離にいる真司の顔――
その瞳に、何もなかった。
「えっ、な、に……これ」
呼吸が乱れ、咳き込む。
咳のたび、口の中から何かが這う感覚が続く。
「初期流入、完了。……君を選んで、よかった」
機械のような声。
優しさも、愛しさも、どこにもなかった。
世界の色が薄れていく。
音が、数字になっていく。
視界がかすかに薄れてく。
それでも、美月は叫びたかった。
「真司、くん……」
その声も、もう音にはならない。
くちづけ一つで、彼女の中に蟻たちが宿った。
「恋」は、侵食のトリガーだった。
──ふたりの初デートは、
美月にとって、最初で最後の「自由」だった。




