第28話 優しい母
朝の光が柔らかく差し込む小さな台所。
母・沙織は笑顔でテーブルを整えながら、息子の圭人に話しかける。
「圭人、昨日は学校どうだった?もう新しい友達はできたの?」
圭人は少し照れながら答える。
「うん、まあまあかな。でも、給食は相変わらずまずいよ」
沙織はクスッと笑って、手作りのジャムパンを圭人の前に置いた。
「まあまあ、ちゃんと食べなきゃ元気出ないよ。ママも忙しくて、いつも美味しいもの作ってあげられなくてごめんね」
沙織の目は温かく、包み込むようだった。
「大丈夫だよ。お母さんの作ってくれたパンが僕の一番の大好物だよ」
母は軽くほほ笑み、圭人の頭を撫でる。
「ねえ、今度の休みは一緒に公園に行かない?外の空気を吸ったら、きっと気分も変わるから」
圭人は嬉しそうに頷いた。
「うん!ママ絶対、約束だよ!」
その笑顔は、まだ順化の影がほとんど感じられない、家族の温もりそのものだった。
「圭人、今日はね、わたし、また“適応支援”のお手伝いでパートに行くからもしかしたら少し遅くなるからね。」
圭人は黙って頷く。
沙織は玄関のドアを開けて、
「じゃあ、行ってくるね!」
圭人に手を振り出掛ける。
昼下がりの薄暗い公民館の一室。
沙織は“適応支援のお手伝い”として、順化の進んだ人々の再教育や観察の補助に携わっていた。
彼女は手早く記録用紙を配り、表情を観察しながら順調に進めていたが、隣にいる中年女性の様子が突然変わる。
その女性がふと耳元に手をやる。
そこから、細かな黒い影──蟻の群れが、ひょろりと這い出てきた。
彼女はふるふると頭を振るが、その動きはどこかぎこちない。
慌てて振り払おうとするが、彼女の体は次第に硬直し、気づけば、同僚の蟻が沙織の耳の中へと移動してきた。
周囲のスタッフも気づいて、無言で距離を取る。
沙織は「あっ、」と気付いたがその時はもう蟻は耳の中に入ってしまった。
そのまま沙織は意識朦朧としていく…自分がもう“順化”の渦中に落ちていることを覚った。
沙織の目は次第に虚ろになり、動きが機械的になっていく。
まるで意識の薄れた身体が、勝手に動いているようだった。
帰りのバスの中、虚ろな目をした沙織は周囲の人間と同じく同化し、まるで遠隔操作されているかのように動いていた。
家に戻ると、息子の圭人がドアの前で待っている。
「ママ、お帰り!」
圭人は朝と全然違う沙織を見て
「どうしたの?お仕事疲れたの?ママ今日は早く寝たほうがいいよ」
気にかけ声をかける。
沙織はわずかに微笑むが、その目はどこか遠くを見ている。
「ありがと…ごめんね、圭人……」
圭人への感情と順化が入り混じる…
沙織の瞳は揺らぎ、圭人の顔見たら安心した。
しかし、次第に感情は薄れていった。
リビングの灯りは薄暗く、家には静寂だけが漂っていた。
沙織は圭人を寝かしつけ、そのままキッチンに向かった。
そして手にした包丁をぎゅっと握る。
感情の欠片も失いかけた身体の奥底に、母としての最後の“抵抗”が芽生えた。
「圭人……あなただけは絶対守りたい……」
涙をこぼしながら、自分の胸に刃を向ける。
包丁を握りしめ、沙織は静かに息を吸った。
キッチンの隅で、母の最期の決断が静かに幕を下ろした。
その日、圭人の目に映ったのは、ただ冷たくなった母の姿だった。
静寂が家を包み込む。
圭人はただ、冷たくなった母の手を握りしめるしかなかった。
の胸には、母が最後まで守り抜こうとした愛だけが、確かに残っていた。
母の愛情も虚しく、圭人も施設の方に連れられ順化していくのであった。




