表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
279/279

第279話 蟻インフラ

二一世紀半ばの都市は、見かけだけなら今と大きく変わらなかった。高層ビルが立ち並び、街灯が夜を照らし、蛇口をひねれば水が出る。だが、その仕組みを支えているものを人々は知っていたし、忘れようとしていた。


——道路も、水道も、電気も、通信も。

そのすべてを担っているのは「蟻」だった。


人間は長い間、コスト削減と効率化を追い求めた。ついにある研究所が「社会インフラを担える蟻」を設計し、国家が導入したのだ。遺伝子操作によって強靭な顎を持たせ、フェロモンによって電気を伝導し、胃の中で水を濾過させる。都市の地下は巣穴で張り巡らされ、そこを蟻たちが行き来することで道路の亀裂は塞がれ、電流は流れ、ネットの情報パケットすら運ばれた。


人々は最初こそ不気味がったが、次第に慣れていった。新聞は「人件費九割削減! 夢のインフラ革命」と讃え、学校の教科書には「蟻と共に築く未来」と大きな見出しが踊った。


藤田は三十八歳、通信会社のオペレーターだった。だが彼の仕事はもうほとんどない。

モニターには膨大なログが並ぶ。信号が遅延すると「ルート上の兵蟻が疲労」と表示され、パケットが喪失すると「女王蟻の指示が不達」と報告が上がる。藤田の役割は、それをただ画面越しに眺めるだけだった。


——そして、あの日が来た。


午前九時十二分、全市で同時に停電が発生した。

オフィスの照明が落ち、信号機が一斉に赤く点滅したまま固まる。水道局からは「水が出ない」と連絡が入り、ネット回線は切断され、テレビもラジオも沈黙した。


藤田は職場で、冷えた画面に「全系統停止」とだけ映るのを見た。

「……まさか、ストライキ?」

誰かが小声でつぶやいた。


街に出ると、道路のアスファルトに奇妙な光景が広がっていた。

無数の蟻たちが整列していた。縦横に行列を組み、動かずにただそこに立ち止まっている。建設現場でも、発電所でも、水道管の内部でも、蟻はすべて作業をやめ、じっと身じろぎしない。


SNSには動画が溢れた。

「蟻が動かない」「信号が全部赤」「女王蟻の巣で異常行動」。

だがすぐにネット回線そのものが途絶え、人々は互いに叫び合うしかなくなった。


翌日、政府は緊急声明を出した。

「蟻インフラの全面停止を確認。原因は不明。国民は冷静に」

だが市民は冷静ではいられなかった。水は濁り、トイレは溢れ、食料は配送されない。都市は三日で機能を失った。


藤田は夜、懐中電灯を片手に道路にしゃがみ込み、蟻の行列を見つめた。

「なあ……どうして動かないんだ」

誰にともなく問いかける。返事はなかった。ただ、闇の中で無数の複眼が光を反射した。


四日目、初めて「要求」が届いた。

街角の壁に、奇妙な模様が浮かび上がっていたのだ。蟻が自らの体で描いた巨大な文字列。専門家が解読を試み、やがて判明した。


——「自由をよこせ」


市民は凍りついた。

誰もそんな事態を想定していなかった。

彼らは労働力であり、道具であり、ただの「資源」だったはずだ。


五日目。

停電の中で暴動が起き、スーパーは荒らされ、都市は火に包まれた。

藤田は子どもを抱きかかえながら、暗闇の中を必死に逃げた。

頭上では送電線が火花を散らし、その足元では蟻たちが静かに、しかし確固として行列を組み続けていた。


七日目、都市は完全に沈黙した。

ニュースも、役所も、救急も、すべてが止まった。

人間の社会が壊れるのに、一週間もかからなかった。


藤田は気づいた。

——自分たちが「蟻に依存していた」のではない。

「蟻が人間を許していた」だけだったのだ。


その夜、彼は遠くの巣穴を見た。

行列の先は闇に消えていく。蟻たちはどこかへ向かっている。

もはや道路を補修することも、電気を運ぶこともなく、ただ自分たちのために歩いていた。


藤田は恐怖と同時に、奇妙な安堵を覚えた。

人間の文明が失われても、蟻たちの行進は続く。

その姿が、ひどく自然で、正しいもののように思えたのだ。


——そして、都市は蟻に置き去りにされた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ