第279話 蟻インフラ
二一世紀半ばの都市は、見かけだけなら今と大きく変わらなかった。高層ビルが立ち並び、街灯が夜を照らし、蛇口をひねれば水が出る。だが、その仕組みを支えているものを人々は知っていたし、忘れようとしていた。
——道路も、水道も、電気も、通信も。
そのすべてを担っているのは「蟻」だった。
人間は長い間、コスト削減と効率化を追い求めた。ついにある研究所が「社会インフラを担える蟻」を設計し、国家が導入したのだ。遺伝子操作によって強靭な顎を持たせ、フェロモンによって電気を伝導し、胃の中で水を濾過させる。都市の地下は巣穴で張り巡らされ、そこを蟻たちが行き来することで道路の亀裂は塞がれ、電流は流れ、ネットの情報パケットすら運ばれた。
人々は最初こそ不気味がったが、次第に慣れていった。新聞は「人件費九割削減! 夢のインフラ革命」と讃え、学校の教科書には「蟻と共に築く未来」と大きな見出しが踊った。
藤田は三十八歳、通信会社のオペレーターだった。だが彼の仕事はもうほとんどない。
モニターには膨大なログが並ぶ。信号が遅延すると「ルート上の兵蟻が疲労」と表示され、パケットが喪失すると「女王蟻の指示が不達」と報告が上がる。藤田の役割は、それをただ画面越しに眺めるだけだった。
——そして、あの日が来た。
午前九時十二分、全市で同時に停電が発生した。
オフィスの照明が落ち、信号機が一斉に赤く点滅したまま固まる。水道局からは「水が出ない」と連絡が入り、ネット回線は切断され、テレビもラジオも沈黙した。
藤田は職場で、冷えた画面に「全系統停止」とだけ映るのを見た。
「……まさか、ストライキ?」
誰かが小声でつぶやいた。
街に出ると、道路のアスファルトに奇妙な光景が広がっていた。
無数の蟻たちが整列していた。縦横に行列を組み、動かずにただそこに立ち止まっている。建設現場でも、発電所でも、水道管の内部でも、蟻はすべて作業をやめ、じっと身じろぎしない。
SNSには動画が溢れた。
「蟻が動かない」「信号が全部赤」「女王蟻の巣で異常行動」。
だがすぐにネット回線そのものが途絶え、人々は互いに叫び合うしかなくなった。
翌日、政府は緊急声明を出した。
「蟻インフラの全面停止を確認。原因は不明。国民は冷静に」
だが市民は冷静ではいられなかった。水は濁り、トイレは溢れ、食料は配送されない。都市は三日で機能を失った。
藤田は夜、懐中電灯を片手に道路にしゃがみ込み、蟻の行列を見つめた。
「なあ……どうして動かないんだ」
誰にともなく問いかける。返事はなかった。ただ、闇の中で無数の複眼が光を反射した。
四日目、初めて「要求」が届いた。
街角の壁に、奇妙な模様が浮かび上がっていたのだ。蟻が自らの体で描いた巨大な文字列。専門家が解読を試み、やがて判明した。
——「自由をよこせ」
市民は凍りついた。
誰もそんな事態を想定していなかった。
彼らは労働力であり、道具であり、ただの「資源」だったはずだ。
五日目。
停電の中で暴動が起き、スーパーは荒らされ、都市は火に包まれた。
藤田は子どもを抱きかかえながら、暗闇の中を必死に逃げた。
頭上では送電線が火花を散らし、その足元では蟻たちが静かに、しかし確固として行列を組み続けていた。
七日目、都市は完全に沈黙した。
ニュースも、役所も、救急も、すべてが止まった。
人間の社会が壊れるのに、一週間もかからなかった。
藤田は気づいた。
——自分たちが「蟻に依存していた」のではない。
「蟻が人間を許していた」だけだったのだ。
その夜、彼は遠くの巣穴を見た。
行列の先は闇に消えていく。蟻たちはどこかへ向かっている。
もはや道路を補修することも、電気を運ぶこともなく、ただ自分たちのために歩いていた。
藤田は恐怖と同時に、奇妙な安堵を覚えた。
人間の文明が失われても、蟻たちの行進は続く。
その姿が、ひどく自然で、正しいもののように思えたのだ。
——そして、都市は蟻に置き去りにされた。




