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第276話 新聞(蟻)記事

ある夜のオフィス。


品川の高層ビル42階、総合商社「東都グローバル」の給湯室は、深夜にも関わらず微かな機械音だけが響いていた。フロア全体は静まり返り、コピー機のランプが青白く瞬いている。蛍光灯の光は冷たく、壁際に置かれた観葉植物の影を不自然に伸ばしていた。


その前で、一人の男が紙コップを手に立っていた。

藤原匠海、三十五歳。入社十二年目で、妻と幼い子ども二人がいる。


日々の家族の声が耳に残る。「たまには休んで」と、妻は心配そうに言う。しかし彼は今夜もここにいた。まだ仕事が終わる気配はない。デスクに積まれた書類、進まない企画書、締め切りの重圧──すべてが彼を捕らえ、オフィスに縛りつけていたのだ。


ここでは、特殊な事情があった。

このビルには、国家インフラの維持と安全確保を目的に微細化された兵蟻が配備されており、人間の社員と協働して各種設備や情報ネットワークを監視していた。兵蟻は人間の目にはほとんど見えないサイズだが、国家の戦略上、欠かせない存在である。その任務は高度に危険であり、配備される兵蟻は厳格に管理された環境下で働いていた。


「あと少し仕上げれば課長に出せる──」

そう心の中で呟きながら、藤原はコーヒーマシンのボタンを押した。湯気とともにコーヒーが注がれる。香りがほんの一瞬、彼の疲れた感覚を覚醒させた。しかし、その瞬間、紙コップは彼の手から滑り落ち、床に黒い液体が広がった。音もなく、液体はじんわりと床を染めていく。


藤原は糸が切れたように膝から崩れ落ちた。息が止まり、瞳の焦点は揺れたまま動かない。胸ポケットから社員証が転がり出る。——「藤原 匠海」


その直後、天井の空調ダクトから異音がした。内部の圧力が異常に高まり、微細化された兵蟻たちが任務中に耐えきれず次々と倒れていった。


兵蟻 No.3-114、No.3-115、No.3-117。


その瞬間、彼らの小さな体が赤い光に包まれ、静かに消えた。人間の目にはほとんど見えない小さな殉職だが、国家の安全を支えていた重要な命の終わりであった。



---


翌朝の新聞の一面。


【社会面】20✕✕年8月24日 東都日報


「兵蟻」3匹死亡 総合商社ビルで事故 — 社会全体に大きな衝撃


東京都港区の総合商社「東都グローバル」本社ビル42階で23日深夜、空調設備の異常により、同社の管理区域に配備されていた微細化兵蟻3匹(No.3-114/No.3-115/No.3-117)が死亡した。


関係省庁によると、原因は蒸気圧の異常で、労働環境の不備が影響した可能性がある。担当者は「わずか3匹とはいえ、国家インフラを支える重要な兵蟻であり、社会への影響は甚大」と述べた。


政府は同日夜、緊急の対策本部を設置。全国のオフィスビルにおける兵蟻の稼働環境について一斉調査を開始した。調査では、空調設備の点検、湿度・温度管理の強化、兵蟻の配備計画の見直しが検討される。


SNSでは「尊い命が失われた」「国を守る兵蟻に感謝を」といった追悼の声が広がり、今夜にはキャンドル集会が予定されている。


一方、同じビルで男性社員1名が倒れ、死亡しているのが発見された。警視庁は「勤務中に倒れたとみられるが、事件性はない」として、早々と調査を終了した。関係者によると、死亡した藤原匠海は深夜まで仕事を続けていて過労で倒れた可能性が高い。


オフィスの同僚たちは口々に、「まさか、彼がこんな形で……」と驚きを隠せず、机に残されたコーヒーカップと乱雑に積まれた書類を前に、言葉を失っていた。家族への影響も甚大で、妻は朝のニュースで初めて夫の死を知ったという。幼い子どもたちは、父の姿を思い浮かべるたびに不安に包まれている。


専門家は、兵蟻の事故と人間の過労死の問題を並列して考察する必要性をこう指摘した。「微細化兵蟻は国家戦略上の重要な存在だが、人間も同じ社会で働く労働者である。兵蟻の労働管理と環境整備が主に欠如すれば、命の危険に直結する」と述べた。


今回の事故は、社会全体に見過ごされがちな“労働環境の安全性”と、“小さな生命への配慮”の重要性を改めて突きつけるものとなった。兵蟻の殉職は、メディアやSNSで大きく取り上げられる一方、人間の死はほとんど軽く扱われる現実。そのコントラストが、多くの人々に違和感と疑問を残すこととなった。


新聞の最後には小さく一行、淡々とこう結ばれていた。


——「犠牲となった兵蟻に敬意を払いつつ、調査と対策を進める。」


それは、社会が抱える不条理を象徴するかのような一文であり、何の説明も救済も示さない言葉だった。



---


全体として、この夜の悲劇は、微細化兵蟻と人間が交錯する奇妙な社会構造を浮かび上がらせるものとなった。夜のオフィスに漂う冷たい空気、黒く広がったコーヒー、そして静かに焼け落ちた兵蟻──それらの断片が、誰の目にも留まらぬまま、社会の片隅で記録され続けるのであった。


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