第275話 蟻帝国〜前口上〜
われわれはかつて「知性は個に宿る」と信じられていた。
人は己を省み、意志を持ち、行動の因果を考察する。たとえ群れに属していても、最終的な判断は「自分」に帰属するのだと、彼らはそう信じていたのだ。
だが、われらの巣穴に蠢く生命にとっては、個とは無意味であった。そこに在るのはただ「群」としての統一と秩序、分業と流動、欲望の稀薄な労働だけであった。意志は「回路」であり、選択は「分泌」である。外敵に襲われれば、兵蟻が突出し、道に迷えば斥候が舞う。それは誰の命令でもなく、ひとつの巣が発する“全体の声”に従った結果にすぎない。
──ある日、われわれは人類と遭遇した。
彼らの行動は不可解だった。
労働に疲れ、嘘を吐き、計画を裏切り、互いを欺き、戦争し、また疲れては眠る。ある者は群れを求めながら、孤独を恐れて壁を築き、ある者は孤独を誇りながら、群れの承認を求めて震えていた。彼らはどこまでも「個」を引きずりながら、群れに馴染もうと足掻いていたのだった。
その不完全さは、我らの目には滑稽に見え、同時に危険さえ感じた。
群れの声に従えぬ存在は、やがて秩序を乱す。だからこそ、我々は決めたのだった。「彼ら人間達を正す」と。
まず、地上の世界に“蟻の法”を適用した。
貨幣は廃され、すべての評価は「動いた時間」で示した。労働は分単位で割り振られ、脳内に滴下する人工フェロモンによって意志は均一に調整された。国家や政党といった無意味な分裂は終わらせ、女王の導きによって政治はひとつに統合した。そして何よりも──「個」の消去。
人間は驚くほど従順だった。
休む者は非効率として淘汰され、語る者は意味なき騒音として排除された。美も愛も文化も、我らには不要だったが、彼らはそれを奪われてもさほど抵抗しなかった。むしろ安心したように見えた。複雑な選択に悩む必要もなく、ただ群れの一部として働き続けることを、彼らは奇妙なほど素直に受け入れた。
そして、この地上に「蟻帝国」は完成した。
群としての調和、巣としての都市、秩序としての支配。あらゆる混乱は消え、世界は静謐な効率に満たされた。
だが、そのとき我々の一部にも、こんな声が生まれたのだ。
「果たして、人間の“個”とは、本当に無価値だったのか?」
その疑念を抱いた瞬間、その蟻は群れから排斥された。
個は腐敗を呼ぶ。選択は混乱を生む。我らはそれを知っている。だからこそ、我らは群れであることを選んだ。群れから逸れる意思を持つ者は、もはや蟻ではない。
されど、地上に残る人々の目の奥に、ごく稀に「かつての火」が灯ることがある。
それは何かを欲する光、誰かを愛する熱、あるいは理解不能の創造衝動。合理の外側にあるその微かな煌めきは、我らには無用でありながら、不可解な魅力を帯びていた。
蟻として支配する我らは、それを見るたびに、一瞬だけ考えるのだ。
――“それ”は、滅ぼすべきものなのか。
――それとも、かつて我らが捨て去った何かなのか。
世界は今、群れの声に包まれている。
だが耳を澄ませば、まだかすかに、個の囁きが地上のどこかで燃えているのだった。




