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第269話 対蟻裁判

20XX年。世界初の「対蟻裁判」は、東京湾岸に設けられた国際司法会館・特設法廷で始まった。


原告席には、巨大モニターに映し出されたZ19コロニーの女王蟻。その黒い外殻の奥で微細に震える触角が、膨大な化学信号を発していた。その複雑さは人間の脳波を凌ぎ、AI翻訳機が秒ごとに解析し、人間の言語に変換した。


被告席には、紺のスーツに身を包んだ哲学者・橘理央たちばな りおう。人類代表として選ばれたのは、単なる学識ゆえではない。彼はかつて「他種との共生倫理」を提唱した人物でもあり、皮肉にもその理論は今回の裁判で試されることになった。


裁判長の厳かな声が響いた。

「本裁判は、人間が蟻という知性体に対して無自覚に加えた被害について審理するものである。まずは原告側から証拠を提出せよ」


女王蟻の翻訳音声が淡々と語る。

「Z19コロニーは昨年、人間の散布した毒餌により三分の一の兵蟻を失った。その数2049体。これは単なる生物的損害ではなく、感情と意思を持つ群体に対する攻撃である」


モニターには、死に際の兵蟻たちのフェロモン記録が流れる。AIが色彩と音に変換した映像は、渦巻く赤と黒の乱舞、断続的な鋭い音波。それは混乱、恐怖、怒り、そして「警告」を示すと専門家は説明する。


橘は立ち上がり、淡々と反論した。

「しかし、蟻は感情を持たない。本能に基づく行動体であり、フェロモン信号は化学反応の連鎖に過ぎない。それを『意思』や『感情』と呼ぶのは、擬人化にすぎない」


その瞬間、傍聴席から低いざわめきが起きた。裁判長が静粛を促すが、原告側の弁護士は一歩も引かない。


「橘博士、あなたは感情をどう定義しますか?」


「感情とは、自己と外界を区別する意識と、それに伴う主観的経験です。恐怖や喜びは、脳内での情報処理と化学物質の分泌が伴い、自己保存や社会的行動を導く。それがないなら、それは感情ではない」


「では問います。感情の有無は、脳の形態や構造によってのみ判断できるのですか?」


橘は少し間を置く。

「少なくとも、神経回路による複雑な自己認識が必要です」


「その前提こそ、人間中心主義ではありませんか?フェロモンによる情報伝達が、コロニー全体で一つの『自己』を構成しているとしたら。それはあなたの言う“自己認識”に等しいのでは?」


会場がざわめく。モニターの女王蟻がゆっくりと触角を動かした。翻訳音声が響く。


「私たちは、死を知っている。死は痛みと混乱を伴う。私たちは仲間を失い、動揺し、備える。それは恐怖であり、悲しみであり、怒りだ」


橘は首を振る。

「それは単なる適応行動かもしれない。人間の言語で『怒り』や『悲しみ』と呼んでも、それが主観的経験である保証はない」


原告側弁護士が鋭く切り返す。

「ならば逆に問います。あなたは他者が『悲しんでいる』とどうやって判断しているのですか?人間同士でさえ、他人の主観を直接見ることはできない。それでも我々は行動と表現から感情を推定し、法や倫理の基礎にしている」


橘の表情がわずかに曇る。

「……」


弁護士は畳みかける。

「あなた方は、自分たちに似た脳や顔や声を持つものだけを『感情の主体』として認めるよう進化した。その偏りこそが、本件の根幹です」


場内が静まり返る中、裁判長が証人の召喚を告げた。モニターに別の映像が切り替わる。

映ったのは、Z19の戦闘で生き残った兵蟻——通称B7。傷ついた外殻の隙間から体液がにじみ出ている。翻訳機を介した声が低く響いた。


「あなたたちは、罪を感じぬために進化した。それが最大の罪だ。我々は殺され、泣いた。あなたたちは笑った」


橘は口を開きかけて、閉じた。言葉を選ぼうとするが、何を言っても詭弁になると直感した。


やがて、かすかな声で呟いた。

「……我々の『正義』とは何なのだ」


裁判はその日のうちに結審せず、判決は保留となった。だが法廷を出る人々の足取りは重く、誰もが目を伏せていた。


加害者も被害者も、いまだ真実を見極められぬままだったのだから。

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