第263話 蟻財務省
「労働とは貨幣であり、貨幣とは忠誠である」
そんな標語が、財務省第二庁舎の壁に刻まれている。
――通貨は存在しない。
現代社会において、人間は“労働”によってのみ価値を持つ。
時給も月給もない。
ただ“蟻単位(Ant Units)”という指標が、すべての指標だった。
何時間働いたか。どの程度群れに貢献したか。
肉体労働、感情労働、創造的労働、それぞれに応じて細かく定義された評価値が自動加算され、個体に付与される。
──それがこの国の貨幣であり、人格の重さだった。
「個人」ではなく「単位」。
「人生」ではなく「労働寿命」。
すべては群体の効率のため。すべては蟻のように。
財務省の査察官・多岐川新一は、今日も淡々と数値の監査を行っていた。
膨大なログの中から、異常値を検出し、それを調査する。それが彼の仕事だ。
だからこそ、彼はそのログに目を疑った。
無職の男──佐伯徹、39歳。就労記録ゼロ。
なのに、彼の保有“蟻単位”は、国家平均の百倍近い──。
「……バグ、じゃないな。意図的な供与だ」
多岐川は椅子から立ち上がり、すぐに調査端末を起動した。
この国では、“蟻単位”の供与はすべて労働と紐づいているはず。裏口供与や贈与は厳禁、見つかれば即隔離だ。
だが、佐伯には、どこにも労働の履歴がない。彼は昨年から“棲処放棄者”として都心の労働群にも属しておらず、独居に近い生活をしていた。
“何者か”が彼に単位を渡している。それも、国家システムを通さずに。
「……これは、蟻の女王案件だな」
多岐川は一人つぶやく。
人間の上に君臨する“知性体の蟻”たち。その中でも特異な存在──“女王”。
彼女たちは非公開領域に住み、国家に影響を与えるほどの力を持つ。
しかし、直接人間と接触することは禁じられている。
もし佐伯が女王と関係しているなら、それは国体に対する反逆に等しい。
翌朝、多岐川は佐伯徹の居住地を訪れた。
場所は、都内第十三区の廃村再生区──いわゆる“労働疎開地”。
住民のほとんどは、過去に“労働拒否”や“感情逸脱”などで社会から排除された者たちだ。
だが、その一角にぽつんと一軒、整然とした小屋があった。
ログハウスのような構造だが、微かに光る蟻型ドローンの痕跡が散見された。
「佐伯徹さんですね。査察官の多岐川です。蟻単位の供与に関して、いくつか確認させてください」
ドアは、すぐに開いた。
中から出てきたのは、整った顔立ちの男。身なりは質素だが、眼の奥に何か確信めいた光があった。
「──やっぱり、来たか。財務省の人間」
「応じていただけるなら、話は早い」
「応じるさ。だって、俺はもう、十分すぎるほど“働いた”からな」
「記録には、一時間たりとも労働履歴がありません」
「そうだろうね。……でも、“記録されない労働”って、あるんじゃないのか?」
多岐川は言葉を止めた。
佐伯は静かに笑った。
「女王様は、見てるよ。俺がどんな夢を捨てて、どんな忠誠を捧げたか。記録がなくても、知ってるんだ」
「……あなたは、“蟻の女王”に仕えていたと?」
「いや、“捧げた”んだよ。心も、体も。
夜中の呼び出し、栄養管理、卵の世話、精神リンク、遺伝子提供、繁殖実験……」
多岐川の背筋が粟立つ。
「あなたは……まさか、“交配個体”か?」
「さあ、どうだろうね。ただひとつ言えるのは、俺が得たこの単位は、愛による報酬だ。
システムの外で──でも、誰よりも正当に」
その瞬間、多岐川の耳元で警告音が鳴った。
〈査察対象、感情圧迫域に接触──心理影響検知〉
〈警戒:非数値的価値観に基づく影響力〉
「……蟻財務省が一番恐れているのは、“非合理な価値”だ。
でも、人間って、ほんとはそこにしか生きられないんじゃないか?」
そう言って、佐伯は静かに微笑んだ。
その目は、まるでどこか別の世界を見ているかのようだった。




