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第261話 蟻韻(ぎいん)

伝説の作曲家──ナミ・ヒノデが最後に遺したのは、五線譜ではなかった。


それは、一万匹以上の蟻の行動記録だった。


巣穴を出る瞬間、互いの触覚を交わす瞬間、死骸を抱えて引き返す瞬間──すべての蟻の動きを、ナミは数十年かけて「譜面」として記録していた。


だが、誰もその意味を解読できなかった。


彼女の死後、「蟻譜」は美術館に眠り続けた。


それが再び動き出したのは、AI研究者の手によってだった。


──人工神経構造解析ユニット《P.A.L.M》が、この記録に「音楽構造」を発見したのだ。


ある条件下で、蟻の行動には周期と抑揚がある。しかもそれは、人間の作曲法に似ているようで、決して一致しない。


言語ではない。


だが意味がある。


リズムでもない。


だが響いてくる。


「これは……音楽だ」とAIは言った(正確には、そう出力した)。


やがて、それは再現された。


最初の演奏は、仮設ホールで行われた。演奏者はいない。すべては機械による音響合成だった。


スピーカーから流れたその音楽を、聴衆は「理解できなかった」。旋律は不定形で、調和と不協和のあいだを行き来する。だが数分後──涙を流す者が現れた。


嗚咽。恍惚。頭を抱える者、立ち尽くす者。


ある女性は、その場で発作を起こした。


医師は言った。「脳の“音韻領域”が異常活性していた。まるで言語を浴びたかのように」


だが、その音には言葉などなかった。


《蟻韻》──そう呼ばれたこの音楽は、次第に人々を惹きつけていった。


ジャンルを問わず、音楽家や批評家、神学者までが分析を試みたが、誰もそれを“記述”することができなかった。


「音ではない何かが、意味を持っている」 「これは“他者の知性”との接触だ」 「いや、これは神の言語かもしれない」


様々な憶測が飛び交った。


だがある日、ある盲目の作曲家が《蟻韻》を聴き、ぽつりとこう言った。


「……これ、泣いてる。蟻が。ずっと」


調査が進むにつれ、《蟻韻》がもとにしていた蟻群は、特殊な振動環境下で“異常行動”を起こしていたことが判明した。


それは、死に近い行動──巣を放棄し、無意味に旋回し、仲間を食べるようなパターン。


ナミ・ヒノデは、それを「苦悶の構成」として記譜していた。


「なぜそんな行動を音楽に?」と問われ、遺された手紙にはこう書かれていた。


「この世界に“音楽”があるのではない。

この宇宙の“痛み”が、音楽になるのだ。」



ある種の研究者は言う。


「この楽曲は、“人間には翻訳できない悲しみ”を伝えているのだ」と。


他方で、それを聴き続けた者の中には、言語を喪失した者もいた。


彼らは口を閉ざし、ただ《蟻韻》に聴き入る。まるで、意味が世界に“侵入してくる”のを防ぐように。


その後、政府はこの音楽を「慎重に扱うべき記録」とし、公開を制限した。


いまも、限られた施設でしか《蟻韻》を聴くことはできない。


だが一部の信奉者たちは、こう囁く。


「《蟻韻》の第六構造までしか解析されていない。第七以降は、“言語そのもの”に変質するらしい」と。


そして──

聴き続けることで人は涙を流し、言葉を失い、人間性を喪失していく。

最終構造に至るほど、それは音楽ではなく“意味”に変質していき、

聴いた人間は人間ではなくなるとも言われた。


ある地下ホールで、誰かが言った。


「第九構造を聴いた人間は、人間ではなくなったそうだよ」


もう、彼はもう人間の言葉ではなく、巣穴に向かって音を発していた。

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