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第259話 蟻界門(ぎかいもん)

僕たちの村には、墓がない。

人が死ぬと、その身体は「蟻界門」と呼ばれる神殿に運ばれる。


神殿の奥には土でできた小さな穴がある。そこに遺体を捧げると、どこからともなく蟻が現れ、死者の身体を覆い尽くす。やがて骨も残さず消えてしまう。


──それが、村の葬送の儀式だ。


「人は死ぬと、蟻に還る。そしてあの世へ導かれるのだ」と、村人は言う。


僕もそう信じていた。兄が死ぬまでは。


兄が亡くなったのは、僕が十四のときだった。山で足を滑らせ、遺体はひどく損傷していた。家族も、顔をまともに見ることができなかった。


葬儀の日。兄は白布に包まれ、村人に担がれて蟻界門へと運ばれた。

僕は泣きながら名前を呼んだが、村の長老に制された。


「悲しむな。彼は蟻様に還るのだ。魂は無に消えるのではない」


そう言われても、兄の身体が蟻に覆われていく光景は、今でも忘れられない。

まるで世界から消えていくようだった。


その日を境に、僕は毎晩、夢の中で兄に会うようになった。

彼は言葉を話さなかった。ただ、頭の中に直接「来るな」という“声”が響いた。


それでも僕は確信している。兄は死んでいない。

彼は、あの蟻界門の奥で──絶対生きている。


ある晩、僕は決心した。

夜中に松明を持って神殿に忍び込み、蟻界門の奥へ入った。

本来、誰も入ってはならない聖域だった。


石の通路を進むと、奥には幾重にも重なる蟻の巣が広がっていた。

無数の蟻が動いていたが、なぜか僕には道を開けてくれた。


しばらく進むと、広間にたどり着いた。

そこで僕は──兄と再会した。


彼は、確かに兄だった。でも、もう人間の姿ではなかった。


身体は黒く細く、節があり、まるで巨大な蟻のようだった。

けれどその瞳には、兄の記憶が宿っていた。


「兄さん……?」


彼は静かに微笑み、そして野太い声で言った。


「還れ」


その言葉は、声という声ではなく、頭の中に直接響くような声だった。


兄は語った。

「蟻界門はただの墓ではない。死者の身体は蟻によって分解され、情報として記憶され、新しい形に組み替えられるんだ」


──死は終わりではなかった。構造を保ったまま、別の存在として再構成される。


彼は“選ばれた者”として、蟻たちに新たな命を与えられたのだという。

そして僕に言った。


「お前は、来るな!」


戻るか。僕も再構成されるか。


僕は迷った。だが、兄の姿を見て、少しずつ兄のことを理解していったのだった。

この村の死生観、信仰、そして“蟻”という存在の意味を。


──そして、僕は一歩、踏み出してみた。


その瞬間、意識が闇に沈んでいった。



それから数年後、村では奇妙な噂が広がっている。

「蟻界門に、死者を迎える“案内人”が現れるようになった」と。


それは黒い外殻を持ち、人間に似た瞳をしているという。


誰かが囁いた。


「あれは、あの兄弟の弟だそうだ──蟻に還った者だ」


ざわめきとともに、静かに──その噂は村に根を下ろし始めている。


そして、また誰かが蟻界門へと向かって歩いていった。

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