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第257話 蟻識(ぎしき)

ぼくの声は、誰にも届かない。


理由は簡単だ。

ぼくの脳だけが、“つながっていない”からだ。


統合脳シンセブレイン

かつて、そう名づけられた技術があった。

人間の感情や判断を、ひとつの“群れ”として最適化するシステム。発想のもとは、アリだった。


フェロモンでつながり、全体で動く昆虫たち。

人類は、彼らの「効率」から学んだ。

最初はAIに応用され、やがて人間の脳そのものが、ネットワークにつながるようになった。


最初はボランティアだった。

孤独な高齢者、引きこもり、失業者。

ちょっと脳波を“調整”するだけで、前向きになれる。

感情が響き合い、自己肯定感が高まる。


そのうち政府が推奨し、企業は義務化した。

学校では、子どもたちが“感情統合”のテストを受けるようになった。


いま、この国の人口の82%が、統合脳に常時接続されている。


「共感性の拡張こそが、人類の進化だ」と、彼らは言う。

みんなが、みんなとつながり、悲しみも怒りも分け合える。

争いも差別もなくなった。決断は、群れの総意として一瞬で下される。


──でも、それは本当に“平和”なんだろうか?


誰かに怒りが芽生えれば、それは一瞬で伝染する。

ひとりが泣けば、みんなが泣く。

ひとりが憎めば、みんなが敵意を持つ。


だから、今この瞬間も、誰かが「感情の流れ」を監視している。

“モデレーター”と呼ばれる管理機関が、24時間体制で情動レベルをモニターしているのだ。


彼らは言う。

「あなたの怒りは、あなたのものではありません」と。


けれど、ぼくは──

怒ることができるし、悲しむこともできる。

ノイズを受け取らず、自分の意思で考えることができる。


……もちろん、それは違法だ。


ぼくは幼いころの事故で、脳の一部を失った。

脳幹に、接続ポートを作れなかったのだ。


病院では「適合困難」と診断され、学校では“未接続者”と呼ばれた。

ずっと、不幸なことだと思われていた。


けれど今、ぼくはこう思っている。


もしかしたら──ぼくが最後の“個体”かもしれない、と。


みんなはつながっている。でもそれは、本当に自分の感情なのか?

どこかの誰かの怒りを、自分のものだと信じていないか?


──数日前。

統合脳のシステムが、かすかに揺れた。


きっかけは、ひとつの暴力事件だった。

地方都市で、ある男が通りすがりの市民を襲ったのだ。


報道は「外部からの犯罪」として処理した。

だが、ぼくは違和感を覚えた。


その男の脳波が、統合ネットワークを“感染”していた。

ほんの一瞬。周囲の人々が、同じような興奮状態に入った記録がある。


──つまり、統合脳は“怒り”に弱い。


悲しみは抑えられる。恐怖は包みこまれる。

けれど、怒りだけは──止められない。


感情の中で、いちばん強く、いちばん鋭い刺激。

それが、群れを揺るがす、唯一の“ウイルス”だ。


そして今も、その怒りは広がり続けている。

なぜなら──


その怒りの中心にいるのは、ぼくの母だったから。



母は、かつて統合脳の開発チームにいた。

共感アルゴリズムの初期設計を担当し、人類を“群れ”に変える礎を作った人物だった。


でも、彼女はある日プロジェクトを離れた。

「これは、感情の自由を殺す」そう言って。


異論を唱えた彼女の存在は、チームから抹消された。

ネットワークからも切り離され、社会的に孤立させられた。

それでも母は、抵抗を続けた。

──ぼくを、“未接続”のまま育てながら。


そして今。

彼女の残した記録が、どこかから漏れた。


そこには、統合脳の中枢に関わる“脆弱性”や、政府の感情操作の証拠が含まれていた。


怒りは、そこから始まった。


その情報を見た“誰か”が、心の底から怒ったとき──

その怒りが、接続された全体に共鳴していったのだ。


母は、今逃げている。

政府は彼女を「過激思想のテロ予備軍」として指名手配した。

名前も顔も、すでにデータベースから消されている。


けれどぼくは知っている。


あの怒りは、本物だった。

誰かの感情ではない、“母という一人の人間”の怒り。


──そして、その怒りだけは、なぜかぼくにも届いた。


未接続のぼくの胸に、確かに残った。

それは、叫びのような、焼けつくような想いだった。



ねぇ、どう思う?

つながることは、本当に“しあわせ”なのかな。


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