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第254話 蟻口(ぎこう)

夜の十二時を過ぎた頃、あの看板が灯る。


蟻口ありぐち──この先、立入自由」


誰が立てたのか、いつからそこにあるのかも分からない。都会の片隅、古びたアパートの裏路地に、それはぽつんと佇んでいる。昼間はただの錆びた門柱。だが、夜になると、その奥にもうひとつの通路が現れるのだ。


その日、俺は酔っていた。仕事帰り、上司に怒鳴られ、駅の階段で誰かを突き飛ばし、顔も見ないまま謝らずに立ち去った。コンビニの袋をぶら下げて、千鳥足で歩いているうちに、気づけばそこにいた。


蟻口。


門の奥は黒く、深い。音も光もない。ただ、すぐそばに、一枚の木板がぶら下がっている。


──ようこそ、蟻口へ。

おひとり様、何匹目からでも。

記録をお読みしますか?


ふざけた都市伝説のようだと思った。だが、俺の手は自然と板を押していた。


次の瞬間、視界がぐにゃりと歪み、空間が反転する。気づくと、白い部屋にいた。音のない無機質な空間。目の前には、古いラジオのような箱がひとつ、ぽつんと置かれていた。


そして、声が流れ始めた。


「記録開始。

個体番号 A-014221。名は“カク”。

生後九日目にて死亡。人間の右足小指により、圧死。

死亡時、巣の再建作業中。配偶対象との交尾を目前に控えていた。

巣の南側に記録あり──“ようやく家族を持てる”」


俺は凍りついた。悪質な冗談か、妄想だと思いたかった。だが、声は止まらない。


「記録継続。

個体番号 A-021784。“ミナ”。

生後四日目。学校の運動場にて、女児の足により粉砕。

遊び場の一部として人間に接触。

他個体との交話記録──“あの子と遊ぶの、今日で三日目。人間はこわくない”」


心臓が痛むようだった。知らない。そんな蟻、知らない。名前なんて、あるはずがない。

けれど、確かに胸の奥がざわついた。

言葉の端々に、痛みがあった。どこか自分の記憶をなぞるような、懐かしさと嫌悪が混ざった何かが。


「記録継続。

個体番号 A-041990。“シグ”。

死亡場所:コンビニ前の歩道。

死亡原因:酩酊状態の人間による踏圧。

踏みつけた人物:対象者、あなた。

死亡前発話:“あれが僕の卵──無事で、いてくれ”」


俺は思わずラジオを叩いた。「やめろ!」と叫んだ。

だが、ラジオは止まらない。


「記録終了。

あなたがこれまで無意識に踏み潰した蟻の記録、合計三千六百十二件。

個体の夢、記憶、営みの一部をお届けしました。

あなたは──赦されたいですか?」


その問いに、声が出なかった。


赦されたい。けれど、赦されるほど、自分は潔白だったか?

何も考えず、ただ踏み、壊し、逃げてきたくせに。

答える資格など、自分にはなかった。


すると、床がパタリと開いた。


俺は声をあげる間もなく、真っ逆さまに落ちていく。

全身に蟻がまとわりつく。爪の間に、眼球に、鼓膜に、性器にまで、這い入ってくる。

指を喰まれ、皮膚を裂かれ、骨の間に潜り込まれる。


「やめ……やめてくれ! すまない! 赦してくれ……!」


だが、蟻たちはただ、ひとつの言葉を繰り返すように振動した。


──あなたは「記録」された。

──あなたは「答えなかった」。

──あなたは、もう「人間ではない」。


最期、意識が焼き切れる直前、俺は見た。

壁に映った、自分の姿。

数千の蟻が集合して形作った──俺という名の「殻」だった。


その翌朝。警察は、通報により裏路地を訪れる。


しかし、「蟻口」の看板はもう、消えていた。


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