第248話 人間の巣
引っ越して三日目の夜、彼女が言った。
「ねえ……この床、やけに柔らかくない?」
フローリングに寝そべって、耳をつけたまま動かない。僕が笑って「気のせいだって」と言っても、彼女は頷かないまま指を床板の隙間に差し入れていた。
築十五年。内装はフルリフォーム済みで、水回りも新品。2LDKで家賃は相場より安い。理由は特にないと、不動産屋は言った。「早い者勝ちですよ」とも。立地がいい割に妙に空室が続いていたことだけが、少しだけ気になっていた。
それから数日、彼女は夜になると必ず床や壁を触るようになった。
「なんか……あったかい。人肌みたい」
そう呟いた日、僕は冗談めかして「前の住人の体温でも残ってんのかな」と言った。
彼女は返事をしなかった。
アルバムが見つかったのは、その翌日だ。
キッチン下の収納棚を整理していたら、床板の裏に何かが貼り付いていた。薄いポケットファイルに、色褪せた写真が数枚。見知らぬ中年夫婦と、その娘らしき少女が何度も写っている。笑顔はぎこちなく、妙に無表情に見えた。
裏には鉛筆で、こう書かれていた。
──2023年8月12日 ここが最後のすみかになりますように。
思わず、声が出た。
「えっ!?ここが……住処?」
その夜、天井の模様が皮膚のように見えた。
網目状の木目に沿って血管のような筋が浮き上がり、ふと見ると節の部分が眼球のように感じられる。カーテン越しの街灯の光が、壁にじっとりと濡れたような影を落とす。
「ねぇ……ベッドの下、見た?」
彼女が言う。
「まだ、見てないなら、見ないほうがいいよ」
何があるんだ、と聞いても彼女は答えなかった。まるで、誰かに口止めされているみたいだった。
そして、夜中に目が覚めた僕は、懐中電灯を片手にベッドの下を覗き込んでみた。
そこには、折れたメガネが落ちていた。
レンズの片方は割れ、金属のフレームはひしゃげていた。けれど、それ以上に目を引いたのは──レンズの内側にびっしりとこびりついた黒い粉だった。埃ではない。もっと粘性のある、まるで蟻の死骸が砕けて乾いたようなもの。
気づけば、手が震えていた。
翌朝、彼女の様子が変わっていた。というより、彼女“ではない何か”が、そこにいるような感じだった。
「この部屋、他に誰かが住んでる感じがする…。ううん、たぶん……人じゃない」
彼女の目は虚ろで、声に熱がなかった。まるで、遠くの音を聞いているようだった。
「ここ、壁の中……柔らかいの。叩くと、返してくる…返事してくれる感じなの…」
その日から、僕の耳にも音が聞こえるようになった、いや…意識するようになったからかもしれない。
壁の中から、カサ……カサ……と微かだが、這いまわる音。
ただの配線の軋みか、風の通り道かと思いたかった。
けれど、日を追うごとに音は大きくなっていく。
寝ていると、頭の下から振動が伝わる。
枕元に置いていたスマートフォンの充電ケーブルが、朝起きると外れて床の隙間に引きずり込まれていた。
誰かが、そこにいた。
再びベッドの下を覗くと、今度はメガネではなく、顔があった。
正確には、顔の「痕跡」だった。床材の裏側に、人間の目元のようなものが押し付けられた跡。まるで、そこに誰かが埋め込まれていたかのように、うっすらと凹んでいる。
「ねえ、あれ、覚えてる?」
彼女が指を差す先、リビングの壁に“しみ”が浮かんでいた。
それは人間の手のひらの形に見えた。掌を開いて、何かを押し返すような、苦しげな形で。
「私、あの人……見た気がする。夢で。でも、夢じゃなかった」
彼女はつぶやくように言った。
「ねぇ…ここ、人間の形してる…。骨も、皮も、まだ残ってる」
「そう感じる。誰かがいるわ…」
その時、気づいた。
“人間の巣”──それは比喩でも何でもなかった。
この部屋は、ある人間を繋ぎ合わせて、空洞にして作られた集合住宅のようだった。
蟻のように無数の通路を穿ち、筋肉を剥ぎ、器官を取り除き、構造体として利用した。
血を抜かれ、骨に補強材を流し込まれ、壁にされ、床にされた人間の集合住宅。
僕たちは今、その中で暮らしている。
ドアの隙間から、微かな風が吹き込む。カーテンが揺れ、音が響く。
──カサ……カサ……。
床下で、何かが蠢いている。
それはきっと、“この部屋の本来の住人”だ。
そして、もうひとつ分かったことがある。
あのメガネ、写真の彼女のものだった。
彼女の視線はもう合わない。
返事も曖昧だ。
壁に耳を当てたまま、動かない。
今、彼女の体温が、ゆっくりと部屋に吸い込まれている。
そして、僕たちは今……あのアルバムに写っていた“家族そのもの”の中で、暮らしているのだった。
骨の壁に囲まれ、皮膚の床に支えられて。
彼女の体温も、もうその一部だ。
あと少しで、僕もきっと──この部屋に、吸い込まれていく。




