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第244話 お母さんは物件

「お母さんは、もう帰ってこないんだって」

父は、まるで誰かの代わりに言わされているようだった。


僕は、うんとも、わかったとも言わなかった。ただ、母のいない家の空気がこんなにも薄くなるものかと、玄関の上がりかまちで立ち尽くしていた。


母が「物件」になったらしい──はじめ、耳にしたときは、また誰かの作り話かと思った。蟻を殺したら罰を受ける、とは聞いたことがあった。でも、まさか本当に「巣にされる」なんて。そんなの、都市伝説の中の都市伝説じゃないか。


「もう、面会には行けるから」

父はテレビをつけたまま、何も映っていない画面を眺めていた。

「ただ、驚かないようにしなさい。あれはもう……うーん、そういうものだから」

「“あれ”って」

「お母さん、だよ」


次の日、僕はひとりで病院に行った。中等部の制服のまま、駅前から出ている巡回バスに乗って。面会許可証には「第三区蟻衛生庁認可」と印があり、受付の女性はそれを見て深く頭を下げた。どこか宗教施設にでも入るような、異様な敬意だった。


病室の前で深呼吸する。金属のドアには「処分待ち」の札が下がっていた。


母はベッドにいた。目は閉じていて、眠っているようにも見えた。でも、その体に──


蟻がいた。いや、体中に。


腕から、口元から、腹部のガーゼの隙間から、小さな黒い粒が列をなして出入りしていた。まるで、人間の皮膚を素材にした巨大な蟻のアパートメントのようだった。


僕は息を呑み、動けなくなった。


室内は無音で、ただ小さな足音だけが規則正しく響いていた。僕の足元にも蟻がいた。一匹。僕の靴先で立ち止まり、触角をこちらに向けて、しばらく何かを確かめるように動かしていた。


「お母さんは、物件になったの」

背後から声がして、振り返ると、看護師の制服を着た女性が立っていた。顔にはマスク。けれど、目は笑っていなかった。

「踏んだんだって。蟻を。二匹も。たまたま監視蟻だったから、免責されなかったのよ」


僕は何も言えず、母のベッドに近づいた。


「本人には痛覚も意識もありません。人間の自我は、巣の基礎になるとき消失するんです。これも、群れへの貢献なんですよ」

「……治らないんですか」

「物件化は不可逆です。判定が下ると同時に、巣化酵素が投与されます。もう人間ではありません。『蟻産共有資産法』の管轄になります」


母の唇の間から、一匹の蟻が這い出てきた。黄金色の液体──蜜のようなものを腹に蓄えていた。


僕の腹の奥がきゅうと鳴った。今朝、何も食べていなかった。


そのとき、ふと気づいた。母の皮膚に沿って、走っている蟻の列。その歩みには秩序があり、まるで導線のように決まっている。どこかで見たような……学校の建築図面? いや、違う。それは、僕の部屋の配置に似ていた。


母の体は──誰かの設計に基づいて、再配置されていた。


「母さんは……なにを考えてるんですか、今」

僕の問いに、看護師はやや間を置いて答えた。

「考えてないの。物件は、もう“個”ではないから。群れの一部。役目を果たしてるだけ」


部屋を出ると、廊下に別の病室が並んでいた。ガラス越しに、同じようなベッド。動かぬ人々。中には、泣き叫ぶ子どもを押さえつけて、床に伏せさせている警備員もいた。


「ここにいるの、みんな……」

「罰された人たちよ。蟻を傷つけたか、群れに背いたか。子どもでも例外じゃない。群れは平等だから」


帰り道、バスの中で僕は自分の靴を見下ろした。ひとつ、踏んでいた。

黒い小さな粒が、つぶれて、形を失っていた。


鼓動が早まる。


まだ、気づかれていないだろうか?

いや、あれはたまたま……たまたま歩いていただけで。僕は悪くない。


そう思いながら、僕は靴の裏を、必死に拭った。もう二度と、誰も巣にされませんようにと、祈るような気持ちで──。


(どうか…バレないで…)


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