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第242話 無味な自由

「今日の蟻糧ありりょうは、青色パッケージでした」


淡々とそう報告したのは、母だった。


朝の報道番組も、昼の校内放送も、どこもかしこも“パッケージの色”で話題が終わる。

味の話はない。なぜなら、味はとっくに廃止されたからだ。


「人間による農業・漁業は、非効率的で不安定な生産体制である」


そう主張して国を動かしたのが、かつて“農業特区”で異常繁殖を遂げた蟻たちの農業形態だった。

過密な巣穴を自動制御し、わずか数日で地下型ハイドロポニカ(水耕工場)を作成している蟻種は、人類にも適用した。


以降、人間は耕さず、釣らず、ただ恩恵を受け取るだけになった。



「昨日の紫はまずかった」

そう零した祖父は、翌月から供給対象から除外された。

“味”に言及することは、非効率な嗜好性の表明=旧人類性の露見とされるからだ。


私はこっそり、口の中で咀嚼の真似をする。


カリ、カリ、と。

味のしない粒状食糧を噛み砕く感覚だけが、ぎりぎり私の“人間らしさ”を繋いでいる。


だがその感覚も、まもなく失われるらしい。


「次年度から、咀嚼補助装置の義務化が始まります」


教室のモニターがそう告げる。

新型蟻糧は、唾液によって即時分解されるよう再設計されているため、「噛む」という行為は栄養摂取に不要と判断された。

装置をつければ、ただ飲み込むだけでいい。

子どもたちは拍手をした。面倒がなくなると喜んで。


だけど私は思ってしまう。

“噛む”という行為の中に、確かにあったもの。

母が昔つくってくれたおにぎりの温度。

父が正月に焼いた鮭の皮の香ばしさ。

台所で炒め物をする音や、包丁がまな板を叩くリズム。

あれは栄養じゃない。

けれど確かに、私はあれで育った。


蟻農水省は言う。

「すべては“最適化”のためです」と。


でも“最適”って、誰にとっての?



ある晩、祖母の部屋から匂いがした。


懐かしい香りだった。

味のある食事を失ってから、五年ぶりの――焦がした醤油の匂い。


そっと戸を開けると、祖母は小さな火を囲み、鍋を抱えていた。


「秘密だよ」

そう言って、笑った。

それは昔見た、炊き込みご飯だった。

蟻に知られないよう、地下室で自家栽培した米と、干し魚と、梅の実。


「これは、味がするんだよ」


私はスプーンを差し出された。

舌が、驚いた。


うまい。


それが、涙が出るほど、うまかった。

この感情を、なんと呼ぶのか。

わからない。でも、これを奪われるのは嫌だった。



次の日、祖母の部屋には蟻が来ていた。

無数の蟻が、部屋の隅から這い出し、祖母の食器を調査していた。

「違反物資、確保」

「非効率活動、摘発」


祖母は連行された。


祖母が残した炊飯器のそばに、メモがあった。


「人間は、ただ生きるだけじゃない。味わって、生きるんだよ」



その言葉を、私は蟻糧の袋の裏にそっと書き写した。


今日の蟻糧は、灰色パッケージだった。



あの日から、私は噛むようになった。

こっそりと、誰にも見られないように。

“味”のない食べ物に、記憶の味を添えて。


味わうこと。それは、抗うこと。

無味乾燥に、かすかな色を与える反逆。


私は今日も噛む。

人間であることを、忘れないために。

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