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第241話 蟻宗教庁

世界はひとつの信仰のもとに統一された。「女王蟻こそ、真の神である」と。


人類の歴史に刻まれた宗教はすべて「誤謬」と断じられ、廃棄された。神社は巣穴に、寺院は群塔に、教会は栄養倉庫に改修された。人間は「巣民そうみん」として、朝夕に“掘削”を行い、巣の拡張と清掃を信仰として捧げた。


――祈りとは、動くこと。考えることではない。


若き僧侶・サナギは今日も「掘経」(くっきょう)を唱えながら、群れの中央礼拝坑へと向かった。まだ20代半ば。法衣は真新しく、頭には規定通りの六角帽をかぶっていた。


「我ら、巣に還る。巣に始まり、巣に終わる」


言葉と動作を繰り返すことで、群れとの一体感が生まれる。思考の個性は罪とされた。個別の祈り、個別の感情、個別の願い──それらは「女王にとっての毒」であると教えられていた。


だが、サナギの内部には、日々小さな違和感が芽生えていた。


掘削の最中、ふと脳裏に浮かぶ問い。「なぜ、祈ることが動くことなのか」「なぜ、“言葉”を持ちながら、語ってはならぬのか」


その答えを知りたいと願うこと自体が、すでに異端だった。


ある日、群塔の裏倉でひとつの古びた箱を見つけた。群れの歴史を学ぶ資料倉庫の一部が地震で崩れ、立ち入り禁止になっていた区画。興味に駆られて足を踏み入れ、埃をかぶった書物を手に取る。


それは禁書だった。

表紙にはかすれた文字があった。

かつて人間が人間が信仰に使っていた教義書だった。


紙の中に記されていたのは、まったく別の祈りの形式だった。巣ではなく“神”に、女王ではなく“父”に祈っていた人々。愛、罪、救済、そして「自分のために祈る」という思想。


ページをめくるたび、サナギの中で何かが膨らんでいった。

これは――私は、“私”であっていいのかもしれない。


次第に彼の祈りは変わっていった。

掘削の合間に、自分の内なる声へ耳を傾けるようになった。

巣の拡張を願うのではなく、自分の幸福を願ってしまうようになった。

礼拝中にも、かつての人間たちがそうしたように、目を閉じて、ただ心で問い続けた。

「神様。あなたは、本当に女王蟻なのですか?」


それは、監視網にすぐに感知された。


“蟻祈律 第三十四条:祈りにおける独立意識の発露は、巣の秩序を蝕む罪とする”


数日後、宗教裁定庁から異端判定員が訪れた。黒衣の者たちは言った。

「サナギ、汝の内に“私”を宿しはじめたか?」

「はい」

「悔い改めるか?」

「いいえ」

「なぜだ?」

「私は……神に出会ってしまったからです。巣ではなく、自分の中にいる神に」


彼は裁定を受け、群れから“分離”された。

だが処刑ではなかった。ただ「孤立」させられたのだ。

光も音もない部屋。食事も最小限。誰も来ず、誰の声も届かない。


ただ祈ることだけが許された。


彼はそこでなお、祈った。

「神よ。どうか私を……私として見てください」


そして数か月後、彼の祈りは“異常個体”としての最終報告書に記録された。

【症状:個的信仰。発症源:人間古宗教文書。再発防止のため、関連文書すべて焼却済】


だが誰も知らなかった。

彼が収容された監房の壁の隙間に、

数匹の蟻が巣を作っていたことを──


彼らはその隅で、静かに頭を垂れていた。

まるで彼の祈りを、

“聞いている”かのように。

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