第231話 蟻の立法府
始まりは、環境省の一通の通達だった。
「全国の蟻塚を文化生態資源として保護対象とする。破壊、撤去、移設、薬剤散布は違法とし、違反者には罰金50万円以下、または懲役1年以下を科す」
地方紙の片隅に掲載されたその通達は、当初ほとんど注目されなかった。だが、その効力は驚くほど迅速に全国へと広がった。保育園の園庭、企業の建設現場、マンションの庭先……どこであれ、蟻塚ひとつで工事は中断され、対応が協議された。蟻を理由に開発が止まるなど、誰が想像しただろう。
やがてテレビでは、おどけたタレントがこう言った。
「いっそ蟻様に住民票でも渡したら?」
観客の笑い声がスタジオに響いたが、その翌週、「都市型蟻群との共生推進ガイドライン」が正式に発表された。まるで冗談が現実に転化するかのような展開に、一部の市民は戸惑い、他は沈黙した。
最初に異常性を訴えたのは、野党の中堅議員だった。
「この“蟻塚保護法”、誰が最初に草案を作ったのか?」
国会の場でそう問いただした彼に対し、内閣法制局は歯切れの悪い答弁を繰り返した。「専門部会の提言をもとに」「複数の有識者が共同でまとめた」──しかし、実際に名を挙げられた人間はひとりもいなかった。
さらに彼は、法案に添付された参考資料の中に、一冊の異様な文献を見つける。
《Artho-Gov Structure: Predictive Models of Swarm-based Law》
著者名は「T.Formicidae」。
翻訳すれば──「蟻類・T氏」。
議場は一瞬静まり返ったが、次の瞬間には笑いが漏れた。冗談だろう、と。だがその資料は内閣法制局の公式文書として確かに提出されており、しかもその理論に基づいて施行された法案は、どれも“過剰なまでに合理的”だった。
一方、市民生活にもじわじわと変化が訪れていた。
ある日、町の公園で、老人と若者が言葉を交わす。
「最近の法律、なんだか不気味だな」
「罰則ばかりで、誰のためのルールなのか分からないっすよ」
「この前、蟻踏みそうになっただけで怒鳴られたんだ。通報されそうになって……正直、もう自分の国じゃないみたいだ」
その言葉を裏付けるように、町中に次々と奇妙な団体が生まれた。
「蟻塚保存協会」「蟻塚見守りパトロール」「蟻友自治体」。
それらの団体は、行政と連携しながら“蟻にやさしい街づくり”を推進していった。
・街灯は蟻の視覚を妨げない赤波長に変更
・道路舗装の下には「避難蟻道」の設置を義務化
・学校給食は「糖分制限による蟻誘発対策メニュー」へと再編
小学校では「蟻との共生」の授業が必修化され、教員は「蟻様」という呼称を用いるよう指導され始めた。
ある教師が朝礼で言った。
「いつか、蟻様たちが我々を評価してくれる日が来るでしょう」
生徒たちは無言で頷いた。
そして、誰も気づかぬうちに、政府の最上層にも異変が起きていた。
内閣府の政策立案会議──毎回、一つの空席があった。誰も座らぬその椅子に、なぜか出席者リストには名前が記載されていた。
「T.F.氏より提言あり。賛成多数により採択」
そう記された議事録が、繰り返し、繰り返し提出されていた。
誰もその“提言”を聞いていない。だが、法案は着実に可決されていく。まるで、全員が黙って従うことを前提としたかのように。
国は、確かに動いていた。
人間の論理ではない、もっと古くて、もっと深い、蟻の理によって。
そして気づいた時にはもう、後戻りできないところまで来ていた。
人間はこう信じていた。
法とは、人間が人間のために作るものだと。
だが、誰も知らなかった。
この国で最初に「道」を作り、最初に「秩序」を築いたのが、誰であったのかを。




