第23話 巣争い(すあらそい)
かつて「山口 謙」という名だった男は、今ではただの住居だ。
体内には3階層に分かれた巣が築かれ、心臓付近には女王蟻、肝臓には栄養備蓄用の蟻群、そして口腔と喉元に外界との連絡係が棲んでいた。
“棲んでいた”、というのは、つい先日の話だ。
──夜明け前。
鼻孔部から突然、別の蟻種が侵入してきた。
奴らは外骨格の光沢が異なる――本来、この人体には属さない別系統の蟻。
“転巣種”と呼ばれる、他者の巣を乗っ取り、住処を広げる略奪型の一派だ。
内部から一部の通路を破壊し、肝臓にいた備蓄班を圧殺。
女王を守る護衛蟻は応戦したが、腎臓側の通路を経由して背後を突かれ、全滅。
「グチュッ……グズ……グッ」
人間だった“謙”の喉が、寝ている間に異音を漏らす。
意識はある。だが何が起きているのかは分からない。
身体の内側が、痛みを伴わずに**“明け渡されている”**感覚だけがある。
──彼の口から、異なる匂いが立ち上がる。
従来の住民が放つ匂いとは異質なもの。
それは、「ここは我々の巣になった」という占有宣言だった。
内部には、2つの種が混在する形となった。
旧女王派と新侵入種。
だが、共存は不可能だった。
数時間後、眼球の裏側から旧勢力の兵蟻が脱走を試みる。
しかし外に出た瞬間、待ち構えていた外部哨戒隊によって即座に分断・捕食された。
この人体は、完全に奪われた。
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夜。別の地下コロニーで、その戦果は誇らしげに語られていた。
「新たな器、獲得。
前回の比でない。
栄養豊富。居住環境、極良好」
戦果報告は、フェロモンの渦の中で即座に拡散される。
だがその報告を聞いた別の第三勢力が、静かにこう呟く。
「……そこまで良い器なら、次は我々がいただこうか」
巣は常に危うい。
その人間が生きている間でさえ、内部では支配種の抗争が続いている。
人間が死ぬことも恐ろしいが、
それ以上に恐ろしいのは、生きている間に体内が戦場になることだった。
生きたまま略奪しなければならない。
そしてその静かな戦争は、誰の目にも映らない。
人間たちは中で何が行われているか知らない。
自分の体内で、
どちらの蟻が、主となるのか、決まっていることなどとは――。




