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第229話 蟻型生活者

登録を終えると、男は「番号」で呼ばれるようになった。


 彼の名は、もうどの記録にも残っていない。過去も、家族も、願いも、記憶の棚から丁寧に消去された。代わりに胸元の金属プレートには「第4区画-L62-就労班」とだけ刻まれていた。


 法案「適応型生活導入」により、生活困窮者は“蟻型生活者”としての再起を許された。衣食住は無料。働き口も確保され、余暇には統制下の娯楽もある。ただし、条件が一つ。


 自由意志の一時放棄。


 政府直轄の管理中枢「巣」が、彼らの行動をすべて決定する。起床時間、食事の栄養バランス、労働時間、使用する語彙、歩行のテンポに至るまで。思考は“非効率”とされ、感情の表出は“無益”として警告対象となる。命令はAIから電気信号で流れ、遵守は義務だった。


 男は初め、安堵していた。飢えることも、職を失う不安も、誰かを妬む必要もなかった。思考を手放すという行為は、想像よりもずっと楽で、心地よかった。


 「これでいいんだ」と思った。何も選ばなくて済む。誰にも迷惑をかけない。誰にも怒られない。ただ、与えられた通りに動けばいい。


 ――だが。


 ある日、男は昼食配膳の当番として指定され、スープを床にこぼした。反射的に頭を下げた彼に、近くの女性職員がふっと笑いかけた。


 「あなた、いい顔するのね」


 それだけだった。システムには拾われない、記録にも残らない、ほんの一瞬の非効率。


 けれど、その瞬間に“何か”が、彼の中に残った。


 ――夕暮れだった。ずっと曇っていたガラスの向こうに、差し込んだ光のような。


 その夜、男は久しぶりに夢を見た。好きだった詩人の一節、姉と口論した雨の日、父の手作り弁当の唐揚げの味。昔の記憶が、どこからともなく流れ込んできた。人間だった頃の自分を、思い出していた。


 翌朝、男は規定より30秒遅れて起床した。警告アラームが鳴った。


 作業中、不意に空を見上げた。「無意味な視線の逸脱」として記録された。


 夜、誰にも気づかれぬほどに口角がわずかに上がった。それだけで、「表情筋の過剰活動」としてログに記された。


 翌週、再教育プログラムが命じられた。「感情の芽」を摘む訓練。延々と流れる悲惨な映像を前に、何も感じないよう鍛えるセッション。


 それでも、男は思った。


 ――おかしい。


 その“思考”こそが、最も危険だった。


 逸脱した脳波パターンが検知され、彼は「隔離房」へ送られた。「思考の矯正」と呼ばれる施術が始まった。記憶の切除。薬物の投与。無表情の係員たちによる監視。


 それでも、彼は笑っていた。


 「これで……やっと……俺は……」


 痛みと混乱の中、彼の意識に残っていたのは、ひとつの匂いだった。海の匂い。昔、恋人と訪れた浜辺。砂浜で寝転んだ彼女の髪が、潮風にゆれていた。


 その記憶だけで、彼には、もう十分だった。


 翌日、彼の記録は「消去された」。


 だが、L62班の作業者の中には、ふと空を見上げる者が現れた。誰に命じられたわけでもなく、ほんの数秒、手を止めて胸元に触れる者もいた。


 その行為に意味はなかった。いや、意味はないとされていた。


 蟻は、集団で生きる。命令に従い、巣の秩序を守る。


 けれど彼は、確かに人間だった。

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