第222話 蟻の声を聴く少年
耳を澄ませば、地面の下で何かが蠢いているような気がした。
蓮は団地の階段下にしゃがみ込み、割れ目から這い出す蟻の行列をじっと見つめていた。別に、理科の観察をしているわけではない。ただ、最近になって妙なことが起きるようになったのだ。
――ザザ……ザザザ……
最初は耳鳴りかと思った。でも、それはどうやら「音」ではなかった。頭の奥に直接届くような、何か。形にならない言葉のようなそれは、蓮が蟻を見ているときにだけ、聞こえてくる。
「……我らの巣に、新たな分岐を……」 「上層の指示だ。資源は北東へ……」 「育児係の切り替えを急げ。フェロモンに乱れがある」
“言葉”だった。
蓮は自分がどうにかなってしまったのではないかと疑ったが、繰り返すうちに確信へと変わった。これは、蟻の声だ。彼らは確かに「話している」。フェロモンという見えない情報で、驚くほど組織的に。
蟻の世界には女王蟻が実権を握っていた。上と下はあるが、それは権力ではなく、機能の違いだった。働く者、守る者、生む者。それぞれが自分の役割をまっとうし、誰も不満を抱かない組織構造になっていた。
「――なぜ人間は、互いに裏切り合うのだ?」
ある日、蓮の頭にそう問いかけるような声が届いた。
それは、はっきりと“意志”を持っていた。上位個体、あるいは巣の意識そのもの。少年は答えに詰まり、自分の暮らしを思い返す。
学校では無視や陰口が日常だった。家庭では、母が夜遅くまで働き、父は週末すら顔を出さない。どこに行っても誰かが誰かを見下し、責任を押しつけ合い、笑っているようで目が笑っていない。
「人間は……そういうものだから」 「“そういうもの”とは、何だ?」
蓮はそれに答えることができなかった。
ある日、蟻たちは言った。
「我らは“女王の声”に従っている。だが、近年その声に狂いが生じている。構造が崩れかけている。お前のような特異的な個体にしか、その異変を伝えられない」
まるで、人間の社会のようだった。効率を求めたはずの構造が肥大化し、自分たちを締めつけ始めている。蟻たちは、少年に「改革」を託そうとする。
だが蓮は、迷った。
自分は人間だ。人間社会すらまともに生きられないのに、なぜ蟻たちの期待に応えられるというのか。
「……もう、黙ってくれ」
彼は耳を塞いだ。だが“声”は止まらない。むしろ、日に日に強く、深く、頭に染み込んでくる。まるで、自分の意識と混ざっていくかのようだった。
そして…眠れない日が続き、蓮はついに決意した。
“その場所”へ行く。
団地裏の舗装の割れ目まで行き、蓮の意識は、地面の奥深くへと吸い込まれていった。
そこには、無数の声が網の目のようにつながり合う、巨大な情報の海があった。
無数の蟻たちが命をかけて築いた網の目のような構造体。すべてが役割を果たし、言葉ではなく意志だけで循環していた。
「君はここにいてもいい。だが、それは君の“人間”としての終わりだ」
その声を、蓮はかすかに理解した気がした。
しかし、彼は拒絶した。
「俺は、俺として生きたいんだ。蟻にもなれないけど、人間としても……たぶん、まだ生きていたい」
そう告げると、声は静かに途切れた。耳も、頭も、すべてが静かだった。
それ以来、蟻の声は一度も聞こえなくなった。
だが蓮の中には、あの世界の記憶が確かに残っていた。
そして、誰にも話せない孤独もまた。




