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第215話 蟻的教育改革

小学校の教室には、普段より少し緊張した空気が張り詰めていた。


今日は半年に一度の「顎鳴り鑑賞」の日だったからだ。


子どもたちはみな、きちんと背筋を伸ばして、教壇の前のスピーカーを見つめている。

教師がリモコンを押すと、教室の四方に設置されたスピーカーから、ゆったりとした顎の音が流れはじめた。


カク……カク……ジョリ……ジョリ……


それは蟻の社会で最も美しいとされる、選ばれし人間の顎の音だった。

女王様の前で、至高の咀嚼を捧げた音が録音されたものだと、何度も聞かされてきている。


子どもたちは真剣な表情で、その音に耳を傾ける。

時折、小さく顎を動かし、そっとカクカクと音を真似るように動かす子もいた。

幼い指先が机の上で微かに震え、触角を模したしぐさをつくる。


(これが、この国の正しい道徳の時間……)


教室の後ろで参観していた近藤は、小さく息を吐いた。


自分が子どものころは、こんな授業はなかった。

せいぜい、蟻の生態を学ぶ特別授業があったくらいだ。

だが今や、国を挙げての教育改革によって「顎鳴り鑑賞」は必修科目となり、音楽や図工より優先されるほどの地位を得ていた。


音が止まると、教師は手を叩き、子どもたちに微笑んだ。


「さあ、今日は今聴いた顎の音について、感想文を書きましょうね。どんなところが素晴らしかったか、女王様にどう届くと思うか……心を込めて書いてください。」


教室に鉛筆の音が一斉に走る。

みんな必死にノートに文字を連ねていたが、その中でひときわ楽しげに筆を走らせているのが、近藤の息子・勇太だった。


しばらくして授業が終わると、廊下から教室を覗く近藤に、勇太が満面の笑みで駆け寄ってきた。


「父さん!今日の授業で聴いた顎の音、昨日の夢に出てきたやつとそっくりだったんだ!」


「夢に?」


「うん。夢の中で、僕の顎を女王様が見て『とってもいい音ね』って褒めてくれたんだよ。それで僕、恥ずかしくてもっと一生懸命カクカクしたんだ!」


そう言うと、勇太は嬉しそうに顎を動かしてみせた。

その動きは幼いなりに、どこか誇らしげで整っていた。


(……俺が子供のころは、こんなふうに顎を鳴らす練習なんてしなかったのにな)


近藤は笑顔を作りながらも、胸の奥に冷たいものが広がるのを感じていた。


学校を出ると、通りでは大人たちが擦れ違うたびに顎を軽く鳴らし、指先を触角のように擦り合わせて挨拶を交わしていた。

恋人同士らしき二人がそっと顎を寄せ合い、小さくカクカクしながら触れ合う仕草を見せる。

老人たちは互いの顎を確かめるように静かに頭を垂れ合っていた。


(――人としての礼儀なんて、もうどこにも残っちゃいない)


今この国で大切なのは、どれだけ蟻的に生きられるか。それだけだ。


家に着くまでの道すがら、勇太は何度も顎を鳴らして見せた。

そのたびに「いい音だった?」と目を輝かせて近藤を見上げてくる。


「……ああ、最高だったよ。女王様にも届くんじゃないか?」


そう答えると、勇太は嬉しそうに笑い、さらに顎をカクカクと鳴らした。

その音は小さな住宅街の夕暮れに妙に大きく響き、まるで周囲の誰かが応えるように遠くからジョリ……ジョリ……という音が返ってくる。


(いつかあいつも、蟻様に褒められる日が来るんだろうか……)


それがこの国で最大の誇りであり、幸福なのだ。


そう分かっていながら、近藤はどこか取り残されたような気持ちで、そっと自分の顎に手をやった。


だが、いつしかその顎も、小さくカクカクと動いていた。


ジョリ……ジョリ……カク……


耳の奥で響くその音が、少しだけ心を落ち着かせるのだった

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