第211話 蟻に好かれることこそが全て
最近、この国では「人間同士の評判」なんてもう時代遅れだった。
本当に価値があるのは「蟻に好かれるかどうか」だけ。
街の書店には、蟻への愛を極めるための自己啓発本が山のように積まれている。
『もっと蟻的に働くための7つの習慣』
『触角でつかむ究極の人脈術』
『女王様に愛される顎の鳴らし方』
『土の香りで伝える誠実さの極意』
人はみな、まず人間社会の評価を捨て、蟻に好かれることに人生を捧げている。
俺は書店でそんな本を手に取る。
レジで会計を済ませるときも、周囲の視線は「蟻的かどうか」をしっかり見定めているようだった。
「その顎の動き、少し鈍いな」とか、「触角の揺らし方に誠実さが足りない」など、細かな欠点を指摘されるのだ。
かつては「人に好かれること」が全てだった俺も、今はもう違う。
「蟻に認められなければ、自分の価値はない」と強く思う。
本を開くと、そこにはこう書いてあった。
「人間はただの殻に過ぎない。
真の評価者は女王様とその臣下たる蟻たちだ。
彼らに認められて初めて、あなたはこの社会で生きるに値する。」
ページをめくるごとに主人公の心は揺れ動き、次第に蟻的動作が身につく。
顎を鳴らし、指を触角のように揺らし、膝をついて四つん這いで歩く。
それらはただの仕草ではなく、社会的信用の証だった。
街を行く人々は、互いに顎を小刻みに鳴らしながら挨拶し合う。
「人間同士の付き合い? そんなのもう古い」
「蟻からの承認こそが誇り」
俺は…
「人に好かれることよりも、蟻に好かれるほうがよっぽど大事なんだ…」
そしてまた、次の蟻的マニュアルを手に取る。
自分がいつの間にか何者かに取り込まれていくような、そんな感覚を抱えながら。
夜、部屋の鏡の前で四つん這いになり、顎を小刻みに鳴らす。
「これで、俺も女王様に認められる…」
その言葉はもはや呪文のように響く。
本物の蟻はただ見上げるだけで遠く感じる。
だけど、蟻に少しでも近づき、彼らの評価を得ることこそが、
この世界で生きるための最も確かな方法なのだ。




