第208話 蟻的振る舞い
最近、この国では「蟻的振る舞い」というものが流行している。
たとえば、道端で会釈する時には必ず触角(に見立てた指)を左右に振る。
職場では、書類を提出する前に一度小さく顎を動かす。
食事の際は、ひと口ずつ慎ましく咀嚼し、決して音を立てない。
街を歩けば、ファッション雑誌には
《今季トレンドは蟻的ポーズ》《蟻的ウォーキング完全マスター》
といった見出しが踊り、人々は膝をつき、手を細かく震わせて歩く。
あたかも蟻の脚のように忙しなく動かすその姿は、通りすがりに顎を小さく開閉させる礼儀も含めて、見る者に謙虚で慎ましい印象を与える。
「まあ見てごらんなさい、あの方のなんと蟻的なこと!」
「素敵だわ、あんな風に顎を揺らせるなんて理想よ」
そんな賞賛が日常に溢れている。
住宅街の庭先では、小さな子どもたちが列を作り、土を一所懸命に運んでいる。
「見て!わたし、一番働き蟻だよ!」
キャッキャとはしゃぐその様子は可愛いものだった。
また公園では、子どもたちが四つん這いになり、地面に頭を擦りつけるようにして「わたし女王様に尽くす蟻なの!」と声を上げながら遊んでいる。
さらに人気なのが「アントスクール」と呼ばれる教室だ。
講師は厳かに言う。
「背は決して伸ばさぬよう。脚を高く上げるなどもってのほかです。
もっと地を這いなさい。顎を…そう、もっと繊細に動かすのです。
あなたのその顎は、女王様に奉げる美しき器ですから。」
教室中の生徒たちは息をひそめ、小刻みに顎を鳴らし、触角のように指を揺らしていた。
一見すれば滑稽で不気味な光景だったが――
当の本人たちはいたって真剣で、そこに強い誇りを抱いているようだった。
(馬鹿げてる……)
そう思いながらも、俺も会社で浮かないようアントスクールに通った。
初めて四つん這いで歩いた時の、膝の擦れる痛みを今でも覚えている。
だが繰り返すうちに、膝は固く黒ずみ、指は自然に触角のように震え、顎は無意識に小刻みに動くようになった。
同僚に「最近お前、ずいぶん蟻的になったな」と言われたときは、訳もなく誇らしかった。
夜、部屋の鏡の前で四つん這いになり、そっと顎を動かし、指先を揺らしてみる。
(……俺、何やってんだ?)
そう思った途端、笑いそうになったが、同時にぞくりとした。
だって――人間である俺が、必死に蟻の真似をして悦に入っているのだから。
それでもやめられなかった。
明日もまた、周囲に「品の良い蟻的な人」として見られたかったから。
人間というのはつくづく哀れで、愛らしい生き物だ。
本物の蟻にすらなれないのに。
そして…今日も夜な夜な四つん這いになり、練習する。




