第207話 蟻を信仰する人間たち
俺は蟻を信仰する集落の調査員として、村外れに築かれた新しい集落を訪れた。
そこは、誰がどう見ても、見た目は普通の人間の村だった。だが――話をすると、ところどころ何かがおかしい。
村の中央には巨大な蟻塚があり、その周囲で何十人もの人間が、膝をつき頭を垂れている。
小さな声で「ズァザ…ハラ…」と意味のわからない言葉を唱え、
「……あなたも一緒に祈りますか?」
背後から、細い声がした。 振り返ると、痩せ細った女が微笑んで立っていた。
その顔色は悪く、唇は青黒い。
「いや、俺はただの調査で……」
「女王様に祈れば、あなたの苦しみも救われます」
そう言って女は、俺の手を引いて蟻塚の前まで連れて行った。 蟻塚には無数の穴があり、そこから小さな蟻たちが列を成して出入りしている。
「私たちは選ばれたんです。この巣を、人間の力で守るのです。
だからこうして、毎朝血を捧げます」
女は袖をめくり、自分の腕を顎で軽く噛んだ。
細い傷から赤い血が垂れ、それを蟻たちが群がって吸っていく。
「この痛みが、私たちを女王様と一つにしてくれるんです」
(頭おかしい……)
そう思ったが、口には出せなかった。 女の目が、異様に澄んで輝いて見えたからだ。
「さあ、あなたも」
「いや、俺は……」
「さあ」
(とりあえず、やるしかないのか…)
気づけば、周りを他の信仰者たちに囲まれていた。 皆が薄い微笑を浮かべ、静かに顎を動かして俺を見つめている。
――パキパキ、カサカサ。
足元を蟻が這い回る音がやけに大きく聞こえた。 無数の小さな脚が俺の足首を登り、ふくらはぎを這い、首筋にまで触れてくる。
(……やめろ……)
声にならなかった。 触角の先が俺の皮膚をくすぐり、ぞわりと何かが心の奥に入り込んでくる。
「これであなたも女王様の子です」
女の声が遠くで響いた。
次の瞬間、俺の身体の中にスッと何かが落ちてきた。
そして、鼻の中にもぞもぞと入っていったその刹那
(――ああ、働かなくちゃ。巣のために。巣を守らなくちゃ)
気づけば俺は膝をつき、血を流しながら蟻塚に祈りを捧げていた。 周囲から聞こえる祈りの声が、心地よく胸に染みてくる。
(女王様……俺は、あなたの……)
どこか誇らしく、どこか冷たく、俺は蟻たちと共に新たな一日を始めるのだった。
そして…新しく来た来訪者…俺は…
「こんにちは…あなたも一緒に祈りますか?」
俺の唇は自然と笑みを形作っていた。




