第201話 蟻の観測者
男は子供の頃から、蟻をじっと見つめる癖があった。
庭先の蟻の巣を掘り返しては、右往左往する蟻たちをいつまでも飽きずに眺めていた。
そのうち蟻はまた巣を作り直し、何事もなかったかのように列を成す。
男はその営みに、なぜかいつも目が離せなかった。
そして大人になり、家庭を持ってからも男は時折、庭に腰を下ろしては、蟻を見つめていた。
蟻は決して何も語らない。ただせわしなく歩き、荷物を運び、触角をすり合わせるだけ。
しかしある日、ふと気がついた。
(俺はずっと――今までこいつらに見られていたのではないか?)
ずっと視線を感じるのだ。
何百、何千という複眼に、穴が空くほど覗かれているような感覚が…。
そう思うようになったその日から、男は恐怖に苛まれるようになった。
夜、布団に潜って目を閉じていても、瞼の裏に蟻の行列が浮かぶ。
複眼がずらりと並び、無数の黒い点がこちらを見つめ返してくるような気がする。
(――俺はずっと観察されていたのだ)
やがて庭先には蟻が溢れ返るようになっていった。
塀を這い、窓枠を伝い、ついには家の中にまで列を作る。
それでも家族は誰も気づかない。
妻も子供も普段通りに食卓を囲み、談笑している。
(見えていないのか? いや――見えないフリをしているだけなのか? 観測されているのは、俺だけなのか?)
頭の中を駆け巡る…。
ある晩、男はとうとう夢とも現ともつかぬ世界で蟻に囲まれた。
小さな顎が一斉に動き、無数の声が重なって響いて聞こえてくる。
「お前をずっと見ていた」
「お前が我々を見ていたように」
「お前が我々の生を覗いた分だけ」
「今度はお前が覗かれる番だ」
男は声にならない悲鳴を上げた。
気づけば自分の手足は細く黒く、六本に枝分かれし、地面を這っていた。
あの頃庭で掘り返した巣の感触が、指先――いや脚先に伝わってくる。
視界には、さらに大きな何かがこちらを覗き込む姿があった。
それは――人間の顔をしていた。
(誰が誰を観測している? 俺はずっと蟻だったのか? 人間だったのか?)
何も分からないまま、小さな体を列に並べ、触角を揺らす。
ただ列に従って歩く。
その奥底で、かすかに自分が笑っている気がした。




