第20話 偽りの日常
朝、会社のデスクに着く。
パソコンの電源を入れ、時計を見る。定刻の3分前。
決して顔は動かさない。常に目線だけで、周囲を確認。よしっまだ誰も“気づいて”いない。
「おはようございます」
それぞれの机から、判を押したように同じトーンの挨拶が返ってくる。
声に抑揚はない。顔に表情はない。
だが彼は知っている――いや、何人かは知っている…
あの日、隣の課の女性が彼宛に書き残したメモ。
「匂いに混ざらないで。言葉じゃない。感じ取られるから。だから、演じて」
それが始まりだった。
それ以来、彼は自分の感情を押し殺し、“順化済み”のふりをして生活している。
驚いても、怖くても、嬉しくても――決して反応しない。
食事は味わわず、呼吸は浅くし、まばたきの間隔まで他人と揃える。
彼だけじゃない。
無表情にマウスを動かすあの同僚。
不自然なほど「自然体」を装う係長。
笑顔が崩れない受付の女性。
みんな、どこか“演じて”いる。
夜、家に帰ると風呂もテレビも使わず、じっと布団に横たわる。
換気扇を止めて、外の空気の匂いに集中する。
「……今夜は近くにいない」
独り言。誰にも聞かれていないことを確認してから呟く。
壁には何も貼っていない。家電の類も最小限。
機械を使っていると“バレる”という噂を聞いたからだ。
ただ、最近“感じる…”。
どこかの誰かが、自分と同じように“まだ人間であることを隠しながら生きている”という確信だけが、時折感じるのだ。
翌朝の出勤時、彼はすれ違った男と一瞬だけ目が合った。
ほんの一瞬、男の左眉がピクリと震えた。
きっと彼はまだ順化していないのだろう…
だが――演技が甘い。
彼は何も言わず、そのまま通り過ぎた。
数日後、男の席は空になっていた。
「急に転勤になったらしいよ」と誰かが言っていたが、恐らく順化したのだろう。
昼休み。社食でカレーを食べながら、同僚が唐突に言った。
「最近、“感じませんか”? 食事が、味ではなく香りだけで評価されてるような……」
彼は言葉を返さなかった。目だけで静かにうなずいた。
次の瞬間、スピーカーから小さなチャイム音が鳴った。
その後上司が食堂に現れ、同僚を呼び出す。
同僚はスプーンを落とし、黙って席を立ち着いていく。
昼休み終了後
もう同僚は戻ってくることはなかった。
噂では転勤になったらしい…
日々、誰かが消える。
日々、新しい“順化済み”の社員が補充されていく。
だが、気づいている人間は、まだこの世界に微かに残っている。
ただ、“感情”を押し殺して――
今日も演技を続ける。
たが演じることが順化よりも精神を腐敗していくようだ…




