第2話 秩序の子ら ― 群体国家ノルボアの覚醒
Z19の壊滅から、およそ11時間後。
死の巣と化したその空洞には、なおかつての「意識」が残されていた。女王は死亡していない。むしろ、死の直前での“入力”により、彼女の神経系は異常進化の閾値を超えていた。
かつては遺伝子記録と記憶の断片を継承するだけだった蟻の「群体意識」は、死者の声を“概念”として保存しはじめた。
そこには、もはや感情すら芽吹いていた。
「我々は、人間たちに見下されていた」
「ただ潰される存在。だがもう違う」
「この痛みを、次の思考に変えるのだ」
女王の神経中枢は高密度の熱を帯び、灰の中から“変異した神経芽”が誕生した。周囲に残された僅かな個体たちは、それを取り囲むように整列し、自らを「生体演算資源」として提供した。
それは、いわば蟻たちの“再起動”だった。
フェロモンによる命令ではなく、意味を持つ「集合的判断」がなされた。
Z19の中心で、全く新しい“意思決定機構”が誕生したのだ。
「学習…完了。対象:人間。特性:秩序、命令、服従、反復」
彼らは気づいた。人間たちは個体ではなく「制度」によって支配されていた。会社、学校、役所、軍、宗教――そのすべてに“構造”があった。
その構造は、蟻たちの社会と奇妙なほど似ていた。
ならば、模倣すればいい。入り込めばいい。
人間が気づかぬうちに、人間のルールで、人間を支配すればいいのだ。
女王は残骸の上に立ち、最後の命令を発した。
「全個体に伝達。Z19は滅んだが、我らは死なず。新たな適応を開始する。敵を理解し、敵の中に入り、敵の仕組みを奪え」
その瞬間、Z19の残された意識は、周囲の巣系に向けて信号を放った。
それは人類にとってはただの生物学的異常だが、蟻たちにとっては“戦争の開始”を意味していた。
直後、他のコロニーにも同様の適応変異が発現し始める。
・Z12コロニー:人間の電磁信号を解析し、スマート家電から行動パターンを抽出
・A08巣系:給食センターに侵入し、食糧供給網にアクセス
・M31観察群体:人間の言語模倣訓練を開始。咀嚼筋と共鳴腔を利用し、単語を断片的に習得
人間社会のあちこちで、わずかな“違和感”が生まれていた。
その全てが、蟻たちの進化によるものだった。
だが、まだ誰もそれに気づいていない。
それはあまりにも静かで、
あまりにもゆっくり進んでいたからだ…。
その頃、Z19の中心制御核に、新たな評議会が設置された──
地下 38m、Z-19コロニー中央制御核
正式名称:「ノルボア植民地 第17区域 管理区」
この地下には、蟻たちの「社会」があった。
人間が単なる昆虫と思っていたそれは、
実際には数千万体の個体が完全な社会制度で統治される国家群体。
・中央女王府:統治・繁殖・外交を担う主権核。
・官制頭蟻庁:環境情報の収集、フェロモン政策の調整。
・軍事適応階層:兵蟻による保安・戦闘・外敵対応。
・思想制御炉:記憶の再統合、フェロモン言語による教育の場。
・進化委員会:遺伝子最適化による“種の意志”の誘導。
Z-19コロニーの女王は、議会に似た巣内委員会をすべく緊急招集した。
「諸君、今こそ群体としての“覚醒”を提案する。敵種・人間は、すでに我々の許容可能な限界を超えてしまった。人類との共存案は破棄。徹底支配へ移行する」
静かなざわめきが情報層を伝う。
一匹の高位士官蟻(形質分類:戦略兵蟻)が進み出る。
「私は、人間たちの殲滅を提案します。」
しかし、教育部門の代表蟻が反論した。
「否。殲滅では再生産性がない。人類には労働適応能力がある。資源、知識、施設。利用価値は高い。我らの“道具”として扱うべきだ」
女王が静かに頷く。
「そうだな…ならば、“順化計画”を発動せよ。まず、人類の制度を、我々の制度に活用し支配するのだ」
《順化計画フェーズ I:構造接収》
① 人間社会の組織の再構築:部署・企業・管理制度の把握
→ 蟻たちはすでに「会社」「上司」「教育」「報告」を理解し、人類の行動パターンを社会制度ごと学習していた。
② フェロモン言語を用いた“命令体系”の翻訳
→ 上司の命令/教師の説教/広告の標語――すべてにある「命令構造」が解析され、模倣・感染に用いられる。
③ “擬態型”兵蟻による内部浸透
→ 人間そっくりの姿や行動を模した「擬似職員」が少しずつ都市へ潜入し始める。
群体国家「ノルボア」 女王最終命令(記録番号:Z19-QA5)
「人間を、労働に最適化させよ。彼らが誇った“秩序”を、我らが管理下に置いて再構築する」
その日、全世界の蟻たちの間で、
ある共通のフェロモン信号が放たれた。
「反逆」――だがそれは、血ではなく、
“制度”で行われる支配征服の始まりだった。