第198話 蟻の悩み相談室
古びた商店街の外れに、小さな看板が立っている。
『蟻の悩み相談室』
冗談みたいなその文字に半ば呆れつつも、心がどうしようもなく沈んでいた俺は、ふらふらと暖簾をくぐった。
中は薄暗く、畳の上に小さな木の机がひとつ。
その上に、黒く艶のある蟻が一匹、じっと座っていた。
「……あの」
蟻は小さく触角を揺らし、こちらを見上げる。
「最近、夜が怖いんです。眠れなくて……ずっと嫌なことばかり思い出してしまって」
蟻はくるりと触角をひと回しすると、机の上を静かに歩き始めた。
右へ左へと何度も行ったり来たりし、やがて机を二度、優しく叩く。
(……夜は、歩き回れってことか?)
ふっとそんな意味が浮かび、思わず息を飲んだ。
「……なるほど。じっとしてるより、体を動かせってことですね」
蟻はまた触角をくるくる回し、今度は俺の手の上へそっと歩いてきた。
その細い脚が手の甲を撫でるたび、胸の奥の固いものが少しずつほどけていく。
「ありがとうございます。あと……もう一つだけいいですか」
声を落として告げた。
「……上司が怖いんです。いつも睨まれてる気がして……胃が痛くて……」
蟻は黙ったまま触角を揺らし、机の端へと歩き出した。
くるくると触角を回しながら、一歩一歩、ゆっくりと端まで進むと、そこでじっと止まる。
(……逃げろってことか?)
「……仕事を……やめる……?」
言った途端、蟻はそっと俺の袖を登り始めた。
その小さな脚が皮膚に触れるたび、胸の奥が軽くなる。
気がつけば、涙がぽろりと落ちていた。
「……ありがとうございました」
頭を下げると、蟻は触角を静かに揺らし、見送ってくれた。
暖簾をくぐり、夕暮れの通りに出る。
胸の中に溜まっていた濁った泥水が、少し薄まった気がした。
だけど歩きながら、ふと立ち止まる。
(……でも、これで本当に良かったんだろうか?
あれは……俺の心が望んだ答えだったのか?
それとも――)
もう一度振り返ると、あの暖簾はゆらゆらと風に揺れながら、何も語らずそこにあった。
小さな不安が、そっと心に巣を作るのを感じながら、俺はまた歩き出した。
翌日、会社には辞表を提出した。
「…あの……就職先はどうしたら…?」