第197話【恋愛】窓際のカフェの切なさ…
カフェの窓際。 彼女はストローをいじりながら、ずっと俯いていた。
「……で、話って何?」
「うん……最近ちょっと、会うのが辛くなっててさ……」
「仕事忙しいんでしょ? 知ってるよ」
「いや……そうじゃなくて……」
俺はテーブルの上の水滴を、指でゆっくりなぞった。
「……実は…、好きな子ができたんだ」
「……は?」
彼女の黒い瞳が驚きに見開かれ、かすかに笑みが浮かぶ。
「……何それ。冗談でしょ? ねぇ、嘘だよね?」
「……ごめん。本当なんだ」
「…………」
小さく震える声で問いかける。
「どこの女……?」
「…………」
俺は黙ってポケットからそっと手を出す。
そこには、小さな黒い蟻が一匹、指先にちょこんと乗っていた。
「……この娘なんだ」
「……えっ…………蟻……?」
彼女の顔が真っ青になり、唇を強く噛み、小さな肩を震わせた。
「なんで……なんで私より蟻なの?」
ぎゅっと組んだ指先は、テーブルを細かく叩いていた。
「私、人間だよ? 一緒に笑ったり、楽しんだりできるのに……どうして……どうして私より……蟻なのよ……?」
声は涙に濡れ、震えていた。
「……そういうんじゃないんだ。ただ……気づいたらもう、この子しか目に入らなくなっててさ……一緒にいると落ち着くんだ…」
情けない声に、自分でも吐き気がした。
彼女はカフェラテを一気に飲み干し、静かにテーブルに置く。
俺の肩の隙間から、細い脚が一瞬覗かせた。
「ねぇ……お願い……」
涙に潤んだ瞳が俺を真っ直ぐ見つめ、声が震えた。
「私……別れたくないよ……」
「……ごめん」
俺は小さく謝り、席を立った。
椅子を引く音にかき消されるように、彼女のすすり泣きが響いた。
視界の端で、彼女が顔を覆い、小さな背中を震わせていた。
(悪い……俺はもう、戻れないんだ)
半年後。
俺はこの娘(蟻)としばらく一緒に暮らしていたが、ある日ふいにどこかへ行ってしまい、それっきり帰ってこなかった。
駅前の花壇の脇で、偶然あの彼女に再会した。
「あ……」
思わず声をかけると、彼女は少し驚き、それからどこか寂しげに笑った。
「久しぶり」
「……元気そうだな」
「うん」
少し沈黙が落ちる。
「……なぁ、俺……やっぱりまだ――」
言いかけると、彼女は慌てて首を振った。
「ごめんね……もう私、大事な子がいるの」
その肩を見ると、小さな蟻が一匹、ちょこんと乗っていた。
彼女はそっとその蟻を撫で、優しく微笑む。
蟻は彼女の指先に頬を寄せるように触角を揺らし、まるで愛を囁くようだった。
「そっか……」
なんだか胸が締め付けられる。
でもそれは、悔しさでも嫉妬でもなかった。
「君も幸せそうで……良かったよ」
そう言うと、彼女は少し目を潤ませて、それでも穏やかに笑った。
花壇の上を、小さな蟻が一匹だけ横切っていく。
それをふたりでぼんやりと目で追いながら、
なんとなく、これでよかったんだと思えた。
そして俺は静かに彼女に背を向け、その場を去った。
その背中に小さな温かさだけが残り続けた。