第195話 蟻療法
「蟻療法を受けるのは初めてですか?」
白衣の医師がにこやかに言う。
「は、はい……最近、他にもいろいろ病院にも行っているのですが、なかなか腰が良くならなくて…。薬もあまり効かなくてズキズキ痛むんです……」
診察用の敷布団に横たわっていた俺は緊張で喉が渇いていた。
狭い診察室には、どこか酸味を帯びた土の匂いが立ちこめていた。
「腰の痛みが長いのでしたら、それなら蟻療法が一番効きますよ。」
近所の診療所で、医者に紹介された蟻療法。
行ってみると、ごく普通の民間の自宅の和室の一室に畳の上での治療だった。
「大丈夫ですよ。蟻様はとても慈悲深いお方ですから」
医師の合図で、白衣の助手が小さな木箱を持ってくる。
蓋を開けると、中には無数の黒い蟻がぎゅうぎゅうに蠢いていた。
「じゃあ、少し失礼しますね」
助手が小さな籠から黒い蟻を数匹つまみ出し、俺の腰のあたりにそっと置いた。
「……っ!」 (くすぐったい……けど……これが治療なのか…?)
蟻は小さな脚で腰を這い回り、ときおり顎で皮膚をつまむように触れた。 奇妙にむず痒い感覚に、思わず笑ってしまう。
そして、助手は俺の背中にも、そっと蟻を数匹這わせた。
冷たい脚が肌を滑る。思わず身をよじると、肩を優しく押さえられた。
「リラックスしてくださいね。蟻様が、あなたの神経全てを整えてくださいますから…」
次の瞬間──
蟻は一斉に身体を這い回り、耳の奥や髪の生え際、腰の辺りに入り込んだ。
(あ……頭の奥が……ぼんやりする……)
いつの間にか瞼が重くなり、意識が遠のいていく。
数時間後、目を覚ますと助手が声をかける。
「どうです? 少しは楽になったでしょう」
さっきまでの痛みが嘘のように消えていた気がした。
「……すごい……なんか、腰が軽くなった気がします」
「そうでしょう。蟻様は神経を整えてくださるんですからね」
そう言って、医師は満足そうに頷いた。
帰り道。
(……ほんとに軽くなった気がするな。すげぇな蟻治療って)
そう思いながら、商店街のアーケードを抜ける。
ふと、舗装の割れ目から小さな蟻が列を作って歩いているのが見えた。
(ああ……あれも蟻様なんだよな)
思わずしゃがみ込んで見つめてしまう。
小さな蟻が律儀に列を成して、規則正しく進んでいく姿が、なぜだかとても愛おしかった。
(さっきは、ありがとうございました。)
違うだろうが、一応先ほどの腰の感謝のお礼を言う。
立ち上がろうとした、そのとき──
「あっ……」
ふいに、腰にずきんと鋭い痛みが走った。
「ぐ……っ!」
思わず手で支えようとするが、ビリビリと神経を走る痛みがさらに追い打ちをかけてくる。
膝が笑い、思わず電柱に寄りかかった。
(……なんだよ……せっかく治ったのに……)
額に脂汗が滲み、歯を食いしばる。
痛みは先ほどまでの軽さが嘘だったかのように、深く、粘つくように腰を締めつけてくる。
目の端に、まだ規則正しく歩く蟻の列が見える。
触覚をかすかに揺らしながら、何かを知らせるように──こちらを誘うように見えた。
「……やっぱり……また蟻様にお願いしないとな……」
スマホを取り出し電話をする。
「すみません、腰が痛くて予約したいのですが…効果あるのでまた、行きたいんです…」