第194話 蟻様研究者の顛末
「蟻様は、ただの昆虫に過ぎない──神でも支配者でもない」
その論文が雑誌に掲載された日、日本中がざわついた。
筆者は国内有数の蟻相学者、坂下康生。 これまで何百もの巣を解析し、蟻様の触角パターンや行列の微妙なズレをモデル化してきた第一人者だった。
それだけに、その論文は衝撃的だった。 「蟻様に顎を下げるなど馬鹿げている。恐れ従うのは人間の怠惰と錯覚だ」 とまで書いてあったのだから。
テレビは連日、そのニュースを報じた。 世間はざわつき、しかし一方で多くの人が「不敬だ」と声を上げた。
「蟻様をただの虫扱いするなんて……」 「バチが当たるわよ」
それでも坂下は自信たっぷりに笑っていた。
「所詮はアリですよ。多少賢いコロニー構造を作ったところで、神性なんてものはあるわけがない」
夜、自宅の書斎。
坂下は書棚から蟻の標本を取り出し、眺めながらワインを舐めた。 家は新築の一戸建て。家族は皆寝静まっている。
窓の外は静かな闇だった。
──カサ。
壁のあたりから、かすかな音がした。 だが坂下は気に留めなかった。 よくある家鳴りだろう、と。
しかし、すぐにもう一度── 今度ははっきりと。
カサカサ、カサ──。
振り返ると、書斎の壁紙の隙間から黒い何かが這い出していた。
(……蟻か?)
目を凝らすと、1匹、2匹、5匹──10匹。 細い隙間から、あり得ないほどの数の蟻が湧き出てくる。
「……おい」
坂下は立ち上がった。 とたんに壁がぶわり、と脈打つように見え、次の瞬間──
ドバアッ──。
壁の割れ目から、黒い奔流が吐き出された。 何千、何万もの蟻が床を覆い、机を駆け上り、坂下の足に取りつく。
「や、やめ──」
言葉にならない声をあげた瞬間、蟻は一斉に這い上がり、口、鼻、耳の中へ潜り込んだ。 息が詰まり、視界が黒く染まる。
最後に聞こえたのは、蟻の小さな顎が無数にぶつかり合う、乾いた音だった。
翌朝。
坂下の家族が書斎を開けると、彼は椅子に座ったまま頭を垂れていた。 顔は見えない。全身が蟻に覆われていた。
「……やっぱり、きっと不敬を働いたからなのね」
妻は淡々と言い、子どもたちもうなずく。
誰も泣かなかった。 ただ静かにドアを閉じ、また日常へ戻っていった。
壁の隙間からは、まだ黒い小さな蟻たちが、一列になって規則正しく続いていた。
──そして昨日の防犯カメラには、黒い袋を持った数人の人影が、ぼんやりと映っていた。