第192話 蟻式市場
東京証券取引所──いや、今はもう「蟻式市場」と呼ばれて久しい。
朝一番、鐘の代わりに、巨大なガラスケースの中で蟻様たちが忙しく行列を作り、顎を鳴らし始める。それが開場の合図だった。
投資家たちはモニターに張りつき、額に汗を滲ませる。 彼らが見ているのは、企業の業績グラフでも国際情勢の速報でもない。
モニターには、延々と巣穴の中で動き回る蟻様たちのライブ映像が映っている。
──株価は、蟻様の動き次第で決まるのだ。
・どの方向に進むか ・どの餌を優先するか ・どれだけ早く動くか
巣穴の微細な行動パターンをAIが解析し、銘柄ごとのレートを秒単位で弾き出す。 誰も仕組みは理解できないが、それが最も正確に経済を映すとして、信じられていた。
「今の……見たか?女王様の周りの働き蟻が右に寄った。ってことは……」
「食品株は下がるぞ!早く売れ!全部売れ!!」
わずか数秒後、本当に食品関連の株が暴落し、スクリーンに赤い数字が滝のように流れた。 場内は怒号と悲鳴で溢れ返る。
「蟻様に逆らうからだ……!」 「ありがたき顎の導きに抗った愚者どもの末路だ……」
呆然と頭を抱える男に、別の投資家が吐き捨てるように言った。
誰もが蟻様を畏怖し、その顎の動きに己の命運を預けていた。
──やがて閉場の時間。
市場の中央に鎮座する女王様の巣が、今日一日の取り引きを終えたかのように静まり返る。 投資家たちは恭しく頭を下げた。 誰一人、今日の損失や破産を蟻様に責める者などいない。
「今日も……“蟻がたき顎の采配”を……」
そこへ現れたのが、蟻相学の権威・島田。 彼は顎の振動データや触角の動きの角度をAIで計測し、精緻なモデルを構築していた。
「このデータを見ろ……働き蟻の行列がわずか3度傾いた。これは今後3日以内に資源循環のバランスが崩れ、金属価格が跳ね上がる兆候だ。」
投資家たちは歓声を上げ、一斉に金属株を買い漁った。
だが──翌日。
巨大スクリーンには、巣穴の中で女王様が退屈そうに触角を揺らす様子が映っていた。 そしてふと、近くにあった幼虫をちょいと転がす。
その瞬間、行列の流れが真逆に変わった。
「なっ……なんだこれは……!」 「昨日のモデル指数はどうした!?理論は!?」
わずか数分で金属市場は暴落し、投資家たちは血の気を失って床に崩れ落ちた。
島田は唇を噛みしめ、画面の蟻を睨みつける。
「……結局、気まぐれかよ……」
その声は小さく、情けなく震えていた。
スクリーンの中の蟻たちは── まるでこちらを見て嘲笑ったかのように、ゆっくり顎を動かした。
そして今日も市場はまた動き出す。 蟻様の顎が鳴るかぎり、人々はまた蟻を分析し、株を買い、そして裏切られる。
今日も人々は何かにすがりながら決断していく。
蟻様の顎がわずかに揺れただけで、人間は破滅の一歩を踏みだしてしまう。それがこの世界の残酷な真実だった。
そして、この世界のあまりにも冷たい真理でもあった。