第19話 匂いの網
森の奥――今では廃墟となった旧送電施設跡。
電波は届かず、GPSも作動しない、かつての“絶縁区画”。
そこに5人の男女が身を寄せ合っていた。
元教師、元市議、元自衛官、そしてただの会社員と学生。
立場も年齢も違うが、共通しているのはひとつ。
「踏んではいけない蟻を、踏んでしまった」という事実だった。
「……ここなら、さすがに大丈夫だろ……?」
男が不安げに問いかけると、やや若い者が肩をすくめて笑った。
「電気もネットもない。ただの森の中だ。俺たちが“いないこと”になってる場所。完璧だよ」
焚き火の火がぱちりと鳴った。
誰もがその音に、ほんのわずか安堵を覚えた。
夜が深まるにつれ、持ち寄った缶詰の中身も尽き、
誰かがぽつりとつぶやいた。
「……ネットに書かれてた。“蟻の社会は匂いでつながってる”って……」
その言葉に、火を見つめていた視線が徐々に集まる。
「匂い、か?」
「いや、比喩じゃない。フェロモンの網……感覚で、空気で、連絡を取り合ってるんだ。
人間の“電波”じゃなくて……“空気そのもの”がネットなんだよ」
誰かが息を呑んだ瞬間、空気が変わった。
湿った土の匂いに、何か別のものが混ざり始めていた。
焦げた植物、発酵臭、金属にも似た酸味――それらが微かに、だが確かに鼻腔に届く。
「……えっ、ちょっ、そこっ、何かいない!?」
誰かがそう言った時、背後の木立でかさりと音がした。
見間違いかと思った。だが、違った。
視界の端に、小さな影が並ぶ。
無数の“何か”が、音もなく、地を這い、木の幹に這い上がっていた。
誰かが立ち上がろうとした時だった。
頭の奥に、響くような圧迫感が走る。
音ではない。声でもない。
それは明確な「命令」のようだった。
次の瞬間、焚き火の向こう側から、静かに人影が現れた。
スーツ姿。だが靴は土に汚れ、顔は無表情。
まるで意思が抜け落ちたように、ぎこちなく、機械的に歩いてくる。
その人物は口を開かずに“語った”。
発見完了。
順化拒否個体、コードZ-17群体。
即時収容・再教育措置を適用。
誰かが反射的に叫んだ。
「やっぱり……逃げ場なんて、なかったんだ……!」
火が一瞬、爆ぜた。
その光の中で、無数の小さな動きが地を覆っていた。
音もなく、静かに、確実に包囲されていた。
そして空気は、もはや完全に“蟻のもの”だった。