第189話 蟻島太郎?
夕方の帰り道。
会社からの帰り、ふと脇道を抜けた先の vacant lot(空き地)で、俺は小さなざわめきに気づいた。
(……あれ?)
近寄ってみると、そこには小さな砂地があった。
よく見ると、砂は中心に向かってゆっくり沈んでいて──
「蟻地獄……?」
穴の底では、もがく一匹の蟻が、滑り落ちるのを必死に踏ん張っていた。
触覚を必死に振り回しながら、爪先で砂を掴もうとしている。
(……蟻様か?)
思わず息が詰まる。
こんなところで蟻様が命を落としたら──自分の身にも、何か罰が降るんじゃないか。
(いや……今助けたら、むしろ恩を感じてくれるかも……?まさかな…)
俺は近くにあった木の枝で恐る恐る手を伸ばし、木の枝で蟻様をそっとすくい上げた。
小さな黒い体が木の枝に伝い、蟻様は一瞬驚いたように触覚を動かし、
それから俺の指を伝って地面へ降り、静かに何処かへ向かっていった。
(今……俺……助けた、よな?)
それだけの出来事だったが、なんだかやたら心臓がドクドクしていた。
夜……。
寝苦しさに目を覚ます。
(……なんだ、暑いな)
身体を起こして薄暗い部屋を見渡すと──
フローリングの上に、小さな黒い列があった。
「あ……」
昼間の蟻様だろうか?
(まさかな…)
蟻たちはそろってこちらを見上げ、やがて一匹がすっと近づいてくる。
そして、触覚をぴくぴく動かして「こっちへ来て」と促しているようだった。
「……ついて来いってこと?」
夢の中みたいな気がして、俺はそのままフラフラとついていった。
庭に出ると、月明かりの下に蟻の巣があった。
(なんか浦島太郎みたいな展開だな……これ、中に入れって?)
恐る恐る指を差し入れようとするが──
すぐに詰まって、それ以上は入らない。
「……いや無理だって。俺、人間だし」
蟻たちは悲しそうな顔(に見える表情)をしてうつむいた。
巣に招くのは諦めたのか、しばらくして戻ってきた蟻たちは、死んだコオロギや虫の破片を抱えてきた。
「……いや、さすがに食えねーよ。ごめん」
俺が謝ると、また蟻たちは悲しそうな顔をして何処かへ行った。
やがてどこからか──
蟻たちは小さな木箱を転がして持ってきた。
まるで玉手箱のようだ。
「おいおい、どこから持ってきたんだよ、それ……」
ツッコミを入れながらも、悲しそうに見つめられたら断れない。
「まっきっと……夢の中だしな。いいや、開けてやるか…」
そう言って箱を開けると、白い煙がもくもくと立ち上った。
咳き込みながら意識が遠のき──
目が覚めると、布団の上だった。
「……やっぱ夢だったか」
安堵して伸ばした手を見て、俺は絶句した。
そこにあったのは、人間の指じゃない。
黒光りする細い脚が六本、無意識にヒクヒクと動いている。
(えっ……うそ、だろ……)
気づけば視界が低くなり、床の近くを這っていた。
昨日助けた蟻様の一団が、どこか嬉しそうに触覚を動かして、俺の周りを取り囲んでいた。
(──そうか。助けた礼……か)
もう人間の声は出なかった。
触覚を動かしながら、俺は自然と蟻の列に混ざり、ゆっくりと歩き出していった。