第188話 蟻田家御曹司 人間社会を無双する
夜、煌びやかなホテルのロビー。
男がソファでくつろいでいると、支配人らしき男がつかつかと近寄ってきた。
「……お客様、当ホテルではロビーで長時間席を占有されるのはご遠慮頂いております。」
高級ホテルにしては、妙に高圧的な口ぶりな態度だった。
男は目を細め、薄く笑って言った。
「へえ、そうなんだ? ここって蟻田家御用達だって聞いてたんだけど。」
「……は?蟻田家?」
支配人は一瞬目を白黒させたが、次の瞬間、血の気が引いたように青ざめた。
「……っっ……す、すみません、失礼いたしました!!」
ガバッと音を立てて頭を下げ、床に額がつくんじゃないかという勢いで土下座した。
「申し訳ございません!まさか蟻田家の御曹司様とはつゆ知らず、無礼を……!どうかどうか蟻様にだけはお伝えなさらぬよう……!!」
周囲の客も慌てて頭を下げ、息をひそめる。
男は退屈そうに手を振った。
「まっ、別にいいよ。ただ──次はないと思って」
「は、ははっ……!ありがとうございます、ありがとうございます……!」
支配人は何度も頭を下げ、震える手で背中の汗を拭っていた。
男はやれやれと立ち上がり、スマホを見ながらロビーを後にする。
(……くだらない。蟻様に近いってだけで、こうも人間はひれ伏した態度をとる。)
人々がひそひそ声で噂をしていた。
「見て……あの人よ。蟻田家の御曹司……」
「この国じゃ、蟻田家の顔色を伺わないやつなんていないわ」
スーツに身を包み、涼しげな顔で颯爽とフロントに向かって来る青年。 それが蟻田洋平だった。
洋平はスマホを弄りながら、受付嬢に声をかける。
「遅いね、僕のオーダーは?」
「あっ、も、申し訳ございませんっ!ただいま急いで──」
洋平がちらりと視線を送るだけで、受付嬢は震えあがった。
「……急がなくていいよ。ただ、もちろん君は蟻様への献上金、ちゃんと納めてるんだろうね?」
「は、はいっ……もちろんです!」
「そう。それなら問題ない」
ほっと胸をなでおろす受付嬢の姿に、周囲の客たちも一斉に安堵する。
(この国じゃ、蟻様と親密な蟻田家の人間に逆らうなんて誰も考えない)
なぜなら──
蟻田家は代々、蟻様から『この上なくお気に入り』として扱われてきた家系。
蟻様の巣の土地取引から、 人間が受ける教育、医療、娯楽に至るまで、 あらゆる制度が蟻田家にとって有利に動くように設計されている。
蟻田家の人間は就職でも結婚でも、誰もが土下座して縁を結びたがる。
違反切符を切られても、警官が真っ青になり 「申し訳ありませんでした!」と逆に謝罪してくる。
洋平は退屈そうに指を組んだ。
(……まあ、当たり前だ。僕がちょっと「蟻様に告げ口しようかな」なんて言えば、国そのものが傾くんだから)
するとそこへ、企業の社長連中がわらわらとやってきて、 「本日はお忙しいところありがとうございます!」と頭を下げる。
「……例の計画、承認頂けますでしょうか」
洋平は一言だけ答える。
「蟻様の行列を邪魔しない立地なら、いいよ」
それだけで億単位のプロジェクトが一瞬で動いた。
社長たちは歓喜し、泣きながら洋平に握手を求める。
洋平はやれやれと肩の上に乗せた蟻に、 「君たちは勿論、僕のこと知っているよね?」と小さく聞いた。
そして、一同に軽く片手を挙げただけで、あとはスマホを見ながらスタスタと歩き去っていった。
ただ──
その歩みはどこか奇妙に滑らかだった。 床を這う小さな蟻の行列を、彼は視界に入れている様子もないのに、 ほんのわずかな軌道修正で自然に避けていく。
踏むことも、跨ぐことも、決してしない。
それは幼い頃から体に染みついた、蟻田家の血に刻まれた独特の歩き方だった。
そして…彼の足跡の先に、蟻の隊列は何事もなかったように続いていた。