第187話 部屋での蟻様騒動
夜、薄暗い一人暮らしのアパート。
会社員の佐伯は、ようやく仕事から帰ってきてYシャツを脱ぎ捨てたところだった。
(あー、疲れた……)
部屋は相変わらず散らかっている。洗濯物の山、コンビニ弁当の空容器。
とりあえずフローリングに落ちた埃だけでも吸おうと、彼は掃除機を取り出した。
スイッチを入れた──そのとき。
「……え?」
何気なく掃除機を滑らせた先で、黒い小さな影が散った。
蟻様だった。
慌ててスイッチを切る。
「ちょ、ちょっと待って……今の……」
しかし遅かった。透明のダストケースには、何匹かの蟻がもぞもぞと蠢いていた。
「や、やば……!」
佐伯は心臓が嫌な音を立てた。
すぐに掃除機の中身をベランダに持ち出し、逆さにして中身をぶちまける。
パラパラと埃や髪の毛と一緒に、黒い蟻様たちが床に散った。
佐伯は額から冷や汗を流しながら、裸足のまま地面にひれ伏した。
「ごめんなさい……!ほんとに……わざとじゃなくて……ごめんなさい……!」
土下座の額がコンクリートに当たる。
近くのアパートの住人が何事かとベランダから顔を覗かせる。
ベランダの床ではどこかで蟻様の列が乱れ、またゆっくりと整列し直していくのが見えた。
佐伯は震える息を整えて、そっと顔を上げる。
(もしかして…許して……くれたのか……な?)
しかし、蟻様たちはただ淡々と歩を進めるだけでわからなかった。
何も言わず、何も示さず、ただ列を作って隣の室外機の影へと消えていった。
翌朝。
佐伯はいつもより慎重に、ゆっくりと気を使いながら掃除をした。
コードを伸ばすときも、ヘッドを動かすときも、何度も目を凝らしては足元を確認した。
許してもらえたのかどうか──それは、結局分からなかった。
そして、彼は急に不安になって、そのまま出頭するのことにした。
「すみません、昨日……蟻様を掃除機で吸ってしまいまして……」
受付の職員は、書類を無造作に引き出しながら面倒そうに言った。
「はい、じゃあこちらの誤吸引報告書に日時と状況を書いて提出してください。3日以内に蟻様監査課から指導が入ると思いますので。」
「……はい……」
小さく項垂れた佐伯の背中は、どこまでもみすぼらしかった。
そして、会社に連絡をいれる。
「すみません、昨日蟻様を掃除機で吸ってしまいまして、もしかしたらしばらく出勤できないかもしれないです…。」