第184話 蟻の歩行者天国
夕暮れの歩行者天国。
ギターを抱えた青年は、少し息を整えると、視線をしっかり下に落とした。
そこには、アスファルトの隙間を縫って歩く、細長い蟻の行列。
青年は瞳を潤ませ、指を震わせながらストロークした。
「♪ アリちゃん アリちゃん ヘイヘイ 小さな英雄たちよ〜
今日もちゃんと ずっと〜前に進んでるね〜 ヘイヘイヨ〜♪」
彼は真剣そのものだ。
目を閉じ、眉間に皺を寄せて、まるで愛のバラードを歌うかのように力を込める。
通り過ぎる女子高生が小声で言った。
「……え、蟻様に歌ってる? やば……」
しかし青年は気づかない。
「♪ アリさま アリさま イェイイェイ 俺はアリ様が大好きなのさ〜
誰も気づかないけど おれはいつも見てるぜ〜♪ヘイヘイ!」
ギターケースの前には誰も立ち止まらない。
小銭は一枚も入っていない。
止まることすら恥ずかしいと思われてしまう。
それでも青年は本気だった。
声はわずかに涙でかすれては、ギターを握る手はじっと汗が滲んでいる。
「♪ アリちゃん アリちゃん ヘイヘイ 胸張って歩けよ〜
この道はお前らの道だ〜 ずっと好きだぜ!エッヘッヘイ〜♪」
思わず、蟻の列に向かってそっと手を差し伸べる。
蟻は何事もなかったように指先をよけて進んでいく。
「がんばれよ……!お前たち……」
完全に独り言だった。
けれど、青年は信じていた。
この想いはきっと蟻に届いている、と。
周囲の視線は冷たく、避けるように遠巻きに歩いていく人がほとんどだった。
それでも青年は必死にギターを鳴らし、声を震わせて歌い続ける。
「♪ アリさま アリさま イェイイェイ 俺はここで歌うから〜
また通ってくれよな 俺だけのお前ら〜♪」
小さな蟻の行列はやがて角を曲がり、見えなくなった。
青年は深く息を吐き、消え行く蟻たちに向かって微笑んだ。
そして満足そうに、まるで最高のライブを終えた歌手のように。
(……また来いよ、アリたち。俺はいつでも歌ってやるからな)
誰も拍手しない道端で、彼は胸にそっと手を当てていた。
そして…彼は永遠にメジャーデビューすることはなかった。