第180話 蟻専用エレベーター
──午後のマンションのロビー。
住民たちは、今日も重たい買い物袋を抱えながら、無言で階段へ向かっていた。
そこには金色の枠に縁取られた、小さな特別製のエレベーターがある。
人間には到底使えない幅と高さ──それは「蟻様専用」として、住民たちが税金を積み立てて設置したものだった。
誰もが近寄ることすら恐れ、神聖なものとして扱っている。
「……蟻様に失礼があってはいけないからな」
そんな言葉がロビーのあちこちから小声で囁かれる。
エレベーター前には、立派な木製のボタンが備え付けられている。
住民たちはいつそれが押されるのか、静かに待つしかなかった。
だが──
その日、床を這っていた一匹の蟻が、ふらりとボタンの上に登り、何の意味もなく足を動かした。
「……!」
控えていた管理人が息を呑む。
間もなく、エレベーターの扉が恭しく開く。
蟻は小さな体をくねらせて中へ入り、やがて扉は静かに閉じた。
中のボタンに再び触角を動かすと、エレベーターはゆっくりと動き出す。
その階数表示が点滅を始め、どこへ向かうのかもわからないまま、するすると上へ消えていった。
誰もが頭を垂れ、ある者は震える声で「ありがたや……」と呟く。
「蟻様はきっと、我々には計り知れぬ御用がおありなのだ……」
だが実際には、あの蟻はただそこにいたから、何となくボタンに乗り、適当に押しただけのようにも感じる。
人々は荷物を抱え直すと、再び階段を上り始めた。
額の汗をぬぐいながら、それでも恭しく胸に手を当て、黙って祈るように上を見上げていた。
どこへ運ばれているのかも知らない小さな蟻が、
静かにマンションの上層へと運ばれていく音が、遠く機械の奥でかすかに響いていた。
もしかすると、これが本当の"あり"がた迷惑なのかもしれない…。