第176話 蟻の懺悔室
白い壁の教会に似た建物──そこは、人が罪を蟻に懺悔するための場所だった。
久坂祐司は、小さな部屋に通されると、緊張で指先が冷たくなった。
机の上に手を置くよう促される。係員が木箱から蟻を取り出し、その黒い粒を祐司の掌にそっと置く。
祐司の心臓はひどく速く打っていた。
「実は一年前に……庭で蟻様を、踏み殺してしまいました。子どもが泣くから驚いて、つい…無意識に……」 祐司は小さな声で唱えるように懺悔した。
蟻は掌の上をゆっくり歩き出す。 小さな脚が皮膚を撫でるたび、祐司の身体は硬直した。
(どうか……赦してください……。本当にわざとじゃないんです……)
蟻は祐司の指先へ進むと、そこで一度立ち止まり、くるりと方向を変えた。
(えっ……赦された、のか?)
そして蟻はそっと手を離れ、机を下りて箱の中へ戻っていった。
係員は静かに頷き、低い声で告げた。
「蟻様はあなたの罪をお受け取りになりました。これからは、心を入れ替えなさい。」
祐司は何度も頭を下げ、安堵の涙を浮かべながらその場を後にした。
建物を出ると、夕暮れの通りはまだ少し明るかった。 祐司は胸を押さえながら、やっとの思いで歩き出す。
(赦されたんだ……。これで、もう大丈夫……)
しかし角を曲がった瞬間、数人の公安局員が立っていた。 黒い制服に白い腕章、無表情な男たち。
「久坂・祐司・被疑者。」
名を呼ばれた瞬間、祐司の血の気が引いた。
「先ほど、蟻様より正式に貴殿の罪状報告が提出されました。『蟻殺し』は重大な反社会行為に該当します。よってこれより拘束手続きを執行いたします。」
冷たい金属音が耳元でしたと思うと、両腕を無造作に取られる。 祐司は必死に首を振り、声を上げた。
「ち、違う! 赦されたはずだ! あの蟻は、赦して──」
「蟻様は赦しを与える存在ではありません。彼らはただ、記録し、報告するのみです。」
無理やり車へ押し込まれた祐司は、背後にあの白い建物を見た。 そこでは次の誰かが、また蟻に手を差し出していた。
夕陽が落ち、街灯がともる頃── 地面のあちこちに続く細い蟻の列が、音もなく公安の車を追うように進んでいった。
そして車内のスピーカーからは、別の誰かの声が淡々と流れ出す。
『……実は半年前に、ランニング中に踏んでしまったのです……。』
祐司はぎゅっと目を閉じた。 その声は、かつての自分の懺悔とまるで同じ響きをしていた。