第175話 蟻史(ぎし)
中学校の社会科の授業。
教師の山部は、黒板に「人間の誕生」と大きく書いた。
「はい、じゃあみんな教科書の28ページを開いて。そこに描かれているのが、我々人間の遠い祖先です」
生徒たちは一斉にページをめくる。そこには奇妙な挿絵があった。 大地を覆い尽くす黒い蟻の群れ。その中央に、人間らしきものが小さく頭を垂れている。
「そう。我々の祖先は、まだ言葉も持たず、道具もろくに使えない愚かな存在でした。そんな我々に、最初に“社会”というものを教えてくださったのが、他でもない──」
教師は指し棒で挿絵の蟻を示す。
「蟻様です」
生徒たちは真剣な目で頷く。
「集団行動、秩序、献身、そして労働の尊さ。すべては蟻様から学んだことです。蟻様がいなければ、私たちはまだ裸で森をうろつく獣だったでしょう」
教師は嬉しそうに目を細めた。
「だから我々は今でも、街に巣を建て、そこに税を納め、蟻様の幸福と女王様の繁栄を祈るのです。それが、人間としての最低限の礼儀です」
生徒の一人、優斗が小さく手を上げた。
「先生……でも、もしも蟻様がいなかったら、人間はどうなってたんですか?」
教室が一瞬ざわつく。教師はその言葉にわずかに表情を強張らせた。
「……その質問は、あまり良くないな。蟻様がいなければ、そもそも人間は存在していません。そう教科書にも書いてあるだろう?」
優斗はバツが悪そうに目を伏せた。
教師は優しく微笑んだ。
「心配しなくていいんだよ。蟻様は決して我々を見捨てたりしない。いつだって導いてくださる。だからこれからも感謝を忘れずに──」
そして教室中の子どもたちに手を合わせさせた。
「……蟻様、ありがとうございます」
全員が一斉に唱和する。
「ありがとうございます」
教室の窓の外、ビルの谷間の地面には巨大な蟻の巣口がぽっかりと開いていた。
そして、その奥深くには数百メートルにも及ぶ地下の蟻の宮殿が広がっていると言われている。
そこから吹き上がる温風が、夕陽に照らされて、街を不気味に揺らしていた。