第174話 街に溢れる「いただきます」
「ねぇ、お母さん。なんで蟻さんや人間は殺しちゃダメなのに、
牛さんや豚さんやお魚さんは殺していいの?」
夕暮れの道を手をつないで歩くとき、まだ小さな娘が不思議そうに尋ねてきた。
母は少し笑ってから、立ち止まり、娘の肩に手を置いた。
「そうね……じゃあ、見渡してごらん?」
二人は歩道橋の上から街を見下ろす。
道路には肉を積んだトラックが走り、デパ地下の入口には魚や貝の写真が鮮やかに並んでいる。
レストランの看板には「国産牛ステーキ」「新鮮ホルモン」の文字。
道端では揚げ物の屋台が香ばしい匂いを漂わせていた。
どこを見ても、人は何かを「いただいて」生きていた。
母は優しく娘の頭を撫でながら言った。
「牛さんや豚さんやお魚さんはね、私たちが生きるために身体を分けてくれるの。
だからね、本当はみんなに“ありがとう”って言わなきゃいけないの。大切な命をいただいているのだから、召し上がる時はちゃんと感謝していただきます言いましょうね。」
娘はきょとんとした顔で、目の前の街をもう一度見つめる。
「……じゃあ、もし蟻さんや人間さんも“いただく”ようになったら?」
母は一瞬黙って、遠くを見つめた。
やがて小さく、でもはっきりとつぶやいた。
「そのときは……蟻さんや人間さんにも、ちゃんと“ありがとう”って言わなきゃね。」
数十年後。
街には「人間供出市場」の看板が立ち並び、
「栄養満点」「高たんぱく」と書かれたポスターがあちこちに貼られている。
通りを歩く小さな子が母親に尋ねる。
『ねぇお母さん、なんで人間さんを食べるの?』
母は穏やかに微笑んで、言った。
『それはね……私たちが生きるために、身体を分けてくれるからよ。
だからちゃんと感謝して食べるのよ。』
二人はその場で小さく手を合わせる。
『いただきます。
──人間さん、ありがとう。』