第172話 蟻様のレストラン
──家族で外食なんて、いつぶりだろう。
ちょっと背伸びした洋食店。
白いテーブルクロス、柔らかな照明。
僕はメニューを見ながら、わくわくしていた。
父は「今日は何でも頼んでいいぞ」と言った。
母も笑っていた。
やっと来たハンバーグステーキは、湯気が立ちのぼっていて、
ナイフを入れた瞬間、ジュワッと肉汁があふれた。
「やべ…美味しそう……」
そう言ってフォークを取ろうとした、その時だった。
──黒い粒が、皿の上にぽとりと落ちた。
小さな蟻が、一匹。
ナプキンの上から、皿へと迷いなく歩いていく。
「……!」
僕は思わずフォークを置いた。
テーブルが凍りつく。
次の瞬間、隣のテーブルの客が気づき、こちらを見た。
ウェイターも遠目にこちらを見て、
こちらに向かってきて小さく頭を下げた。
「お客様……残念ですが、蟻様がお望みになられたようです」
父が静かに頷き、ナプキンで口を拭いた。
「……そうか。それはありがたいことだな」
母は膝の上で手を組み、うっすらと笑った。
僕は腹が空いて仕方なかったけど、
その皿には二度と手を伸ばせなかった。
ウェイターが「蟻様専用トレイ」を運んでくる。 皿をそこへ丁重に移し、
店の奥、白い祭壇のような場所へ置いていった。
そこには既にいくつもの料理が並び、
何百匹もの蟻が行列を作りながら皿を渡り歩いていた。
僕は背筋を伸ばし、周囲の視線を感じながら、
小さく頭を下げた。
どのテーブルも、同じように頭を下げていた。
それが、この国で食事をするということだった。
両親だけ食事を終え、一緒に店を出て夜道を歩く頃…
僕のお腹はぐうぐうと音を立てていた。
でも、決して不満なんか言えなかった。いや、言えやしなかった。
「……蟻様がお望みになられたんだから」
口に出してみると、なんだか少し安心した気がした。
そう、あれは僕のための料理じゃなかったんだ。
──それを望んだのは、蟻様なのだから。
そして帰りにコンビニでハンバーグ弁当を買って帰った。
家に帰ったら、僕のハンバーグ弁当にも小さな影が落ちてきた。