第170話 蟻との接し方
この国では、蟻様の「踏破」は重罪だった。
街角を歩く蟻をうっかり踏み潰してしまえば、それだけで逮捕され、裁判にかけられ懲役になる。
誰もが慎重に地面を見つめ、蟻の列を優先して道を譲るのが当たり前だった。
だが、最近ではさらに厳しくなった気がする。
「踏まなければいい」というものではなくなってきのである。
先日、近所の若い男が捕まったそうだ。
理由は「蟻様を見たのに会釈しなかった」からだ。
「さっきあの蟻様がお前の方を向いていたのに、お前は何もせず通り過ぎただろう」 取り調べでそう責められたと聞く。
また別の日には、スーパーのレジで客が注意を受けていた。 「今この床を横切った蟻様に、声をかけませんでしたね?」 店員は冷たい笑顔で告げ、レシートを渡す代わりに通報ボタンを押された。
近頃では、「蟻様に呼ばれたのに返事をしなかった」という理由で罰金を取られる人もいる。
(蟻様が呼ぶ?そんな馬鹿な――)
そう思ったけれど、ニュースでは大真面目に、 「蟻様からの波動を感じた際は、必ず礼を尽くしましょう」 とアナウンサーが呼びかけていた。
夜、家の前のアスファルトを一匹の蟻が横切った。
僕は一瞬ためらったが、頭を下げ、小さな声で「こんばんは」と呟いた。
返事など返ってくるはずがない。
だが、こうしていれば捕まることはない。
遠くでパトカーの赤い光がくるくる回っていた。
(いつからこんな国になったんだろう)
――でも、それが「正しい生き方」だと、誰もが疑いなく信じているのだった。
そして、今日も蟻様とすれ違う。
「こんにちは!今日も天気いいですね!」