第17話 ただ、踏んだだけなのに…
午前八時。
通勤ラッシュの駅前ロータリー。
交差点の手前、人の波に押されるようにして、彼は足を一歩踏み出した。
「……プチッ」
小さな音がした。
それだけだった。
気にするほどのものではない。
誰もが、毎日踏んでいる音だ。
だが、数秒後。
すっと、両脇に黒い制服が立った。
「市環共棲法第八条違反の疑いで、同行をお願いします」
「……え?」
唐突すぎて、彼は一瞬理解できなかった。
黒い制服――環境共棲課警備局。いわゆる“蟻警”。
「ちょ、待ってください。俺が何したって言うんですか?」
「対象地点にて確認。肉眼での踏破による死亡を確認済。現場AIの映像も記録済。現行犯で逮捕します。」
「いや、踏んだって……蟻でしょ?」
その言葉に、警備官の目が微かに動いた。
その一瞬の間に、周囲の空気が変わる。
道ゆく人々が、振り返っていた。
表情は一様に無表情で、ただじっと、彼を見ている。
言葉もなければ、動きもない。
まるで社会そのものが“彼を見ている”かのようだった。
「対象の発言:『蟻でしょ?』記録済」
カチャ、と音がして、両手に冷たい金属が巻かれる。
「ちょっと待ってください! ただ、うっかり踏んだだけで……!」
「弁明は審問で」
「なあ! そんなバカな――!」
だが、誰も助けようとしない。
駅前のビル、ベンチ、バスの中。
すべての人間が、ただ静かに、彼の姿を見ていた。
一人の子どもが、母親の服の袖を引いた。
「ねえママ、あの人、踏んじゃったの?」
「見ちゃいけません。あれは、“下等者”よ」
その言葉に、彼は血の気が引いた。
「蟻を守ること」が、日常であり、法律であり、宗教のようになっていた。
留置所のベンチに座らされ、彼はようやく気づく。
ここには自分と同じように、「ただ踏んだだけ」の人間が、すでに何人もいた。
誰も目を合わせない。
誰も声を出さない。
そして壁には、次のような表示があった。
《順化未完了者:第12隔離区にて処理予定》
世界は、黙って変わっていた。
そして今、彼らは黙って“処分”されようとしていた。