第168話 蟻任せの人生
この国の一部の区域では、重大な選択を迫られたとき、自分で決めるのではなく蟻に委ねる奇妙な風習があった。
庭先に砂を撒き、そこに蟻を放つ。
右へ行けば留まる、左へ行けば別れる、まっすぐ進めば挑戦、引き返せば撤退。
そんなふうに、蟻の進む先で人生を選ぶのだ。
「蟻占い」と呼ばれ、人々はそれを便宜的に便利に使った。
責任を持ちたくないのだ。自分の決断を、自分のせいにしたくないのだ。
ここにも1人、蟻に人生を決めてもらってきた人物がいる。
田所雅人、五十歳。
若い頃から、彼も何度も蟻に人生を委ねてきた。
二十歳で、好きな女性に告白するか迷ったときも、蟻を放った。
蟻はまっすぐ進んだ。
結果、彼女には既に恋人がいて、ひどく気まずい思いをした。
あの時も、ただ「蟻様が選んだだけなので」という口実ができた。
三十歳で転職の話が舞い込んだときも、蟻を頼った。
右へ歩いた蟻を見て、転職を選んだ。
ところがその会社は数年後に倒産したが、再就職の際には、「蟻様が決めたので」という言い訳が使えた。
四十歳で妻が病に倒れたとき、治療方針を決めるのにも蟻を使った。
しかし治療は功を奏さず、妻は亡くなった。
(……でも、俺のせいじゃない。蟻が決めたことだから……)
そうやって彼は、いつも心のどこかで自分を慰めてきた。
五十歳のある日、久しぶりに庭先で蟻を見つけた。
雅人はしゃがみ込んで、小さな蟻の行列をぼんやり眺めた。
(……結局、俺の人生は、全部蟻に任せてきたんだよな。)
すると、ふと恐ろしい考えが脳裏をよぎる。
(――いや、待てよ。あいつらは、ただ腹を満たすために歩いていただけじゃないのか?
右だ左だ、まっすぐだなんて、何の意味もなかったんじゃ……)
その瞬間、胸の奥がぞっと冷えた。
自分は一体何をしてきたのか。蟻が示した道だと信じ、結局は何も考えずに生きてきただけじゃないか。
だが、雅人は小さく息を吐いて、自分に言い聞かせるように笑った。
(……それでいいんだ。俺は蟻のせいにできたから。
だからこそ、ここまで生きてこられたんだ……)
そう口の中で呟くと、蟻は何の興味も示さず、ただ列を乱さず黙々と歩き去っていった。
雅人は小さな背中を見つめ、かすかに震える指先を握りしめた。
それが、取り返しのつかない人生を――必死に正当化しようとする、ささやかな仕草だった。
(こんな人生にしやがって…全部お前達のせいだからな…)