第167話 蟻に人生を決めてもらう男
この国の一部の区域では、蟻の群れに自分の進路を決めてもらう奇妙な風習があった。
家の軒先や庭先に砂を撒き、そこへ蟻を放つ。
右に向かっていけば仕事を続け、左に行けば辞表を出す。
まっすぐ進めば結婚し、Uターンすれば独身を貫く。
信じている人々はそれを「蟻占い」と呼び、何よりも信じていた。
――いや、正確には「信じている」というより、そうやって人生の責任を蟻に押しつけることで、皆ほっとしていたような感じだ。
青年だった頃の彼もまた、その風習に従った一人だった。
高校を卒業した年、就職か進学か迷って、蟻に決めてもらうことにした。
蟻はよたよたと左に進み、彼はそれで就職を選んだ。
数年後、結婚を考えた恋人がいたときも、蟻は真っ直ぐ進み、彼は結婚を決めた。
転勤の話が出たときも、蟻は迷わず右へ歩き、彼は家族を連れて地方へ移った。
そのたびに彼は「蟻が決めたことだから」と、肩の荷を下ろした。
やがて歳月は流れ、子どもは巣立ち、妻とも穏やかに暮らし、気づけば彼は初老を迎えていた。
ある日、ふと庭に目をやった彼は、久しぶりに蟻の群れを見つけた。
小さな黒い蟻たちが列をなし、どこへともなく進んでいく。
懐かしい気持ちが込み上げ、彼は庭に腰を下ろしてぼんやりと蟻を眺めた。
(そういえば、俺の人生は、全部蟻が決めてくれていたな……)
そう思ったとき、ひとつ唐突に疑問が湧いてきた。
(いや、待てよ。……もしかして、あの蟻たちは、ただ気まぐれに歩いていただけじゃないのか?)
思い返せば、あのとき蟻が左へ行ったのも、右へ行ったのも、特に別に理由があったわけじゃない。
石ころを避けたり、風に流されたり、あるいは偶然そこにフェロモンが残っていただけかもしれない。
そう考えると、自分の人生は――なんとまあ、無意味な偶然の連続だったのだろう。
でも、そこで彼はふっと笑った。
(……いや、それでいい。だって俺はずっと、蟻のせいにして生きてこられたんだから)
自分で決める責任の重さから逃れ、失敗しても蟻のせいにし、幸せなら「蟻のおかげ」と言って感謝した。
そんな人生だったからこそ、少なくとも自分は後悔はしていない。
蟻の群れは、今日も変わらず無数の足で庭を歩いていく。
それを見つめながら、彼は静かに目を細めた。
「ありがとうな、蟻たち。お前らのおかげで、俺は楽に生きられたよ。」
もちろん蟻は何の返事もしない。ただ列を乱さず、また気まぐれに角を曲がり、どこかへ消えていった。
それでも彼は、どこか誇らしげに、穏やかな笑みを浮かべていた。
そう…後悔していないんだ…きっと…。